ウェールズの山 目次
「山と丘との違い」にこだわる
原題について
見どころ
あらすじ
山岳測量は軍の任務
閑職としての測量
戦争の酷い傷跡
戦争の酷い傷跡 続き
「山麓」の田舎町
物語の舞台の描き方
郷土の山への誇り
したたかなモーガン
測量結果
牧師の嘆き
モーガンの悪だくみ
頂上の嵩上げ大作戦
アンスンとベティ
降り続く雨
安息日の大仕事
標高測量のやり直し
ウェイルズとイングランド
国名表記の奥深い問題性
征服による連合王国
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◆征服による連合王国◆

  細かく分ければきりがないが、大雑把に見て、ブリテン連合王国には少なくとも4つの主要な民族ないし語族(言語的エスニックグループ)が並存している。
  イングランド(アングリア)、スコットランド(カレドニア)、北部アイアランド(ヒベルニア)、そしてウェイルズ(カンブリア)である。
  このうち、スコットランドとアイアランドには独自の行政府と諮問評議会が存在し、ブリテン王国に服属するレジームの枠内で固有の立法権と司法権を与えられている。とはいえ、国家的自律性はない。
  ウェイルズも含めて、これらの地方――ブリテンではネイションと呼ぶ――は、イングランド王権によるいくたびもの軍事的侵略と征服活動を受け、それゆえまた幾多の独立闘争(の挫折)を経験し、やがて経済的・政治的・行政的に従属し統合された歴史(経過)を持つ。そして支配され統合された側の歴史は語り継がれて、公式の歴史として残されている。

  だから、UK=連合王国というとき、アイアランド人やスコットランド人、ウェイルズ人たちは幾ばくかの屈辱と反発心がともなう自己意識をともに感じるかもしれない。つまり、自分たちは統合=支配されている――劣位に置かれている――のだという状況認識と、それでも「完全な同化」ではなく「諸王国の連合」と呼ばざるをえないほどには独自性や差異性 diversity をいまだに保っているのだ、と。

  さて歴史的にみると、イングランドも含むブリタニアそれ自身が15世紀までは古代ローマ帝国や大陸諸王国の植民地=属領であった。
  中世には幾度もアングルザクセン諸族の征服・植民活動にさらされたブリタニアだったが。が、11世紀以降、フランスの最有力君侯がイングランドを征服統治してその王権を掌握していった。
  西フランク王国の有力君侯ノルマンディ公による征服運動は、イーストアングリアなど南部から始まった2世紀間におよんだ。ブリテン諸島はフランスの有力君侯の植民地=属領となったのだ。
  このブリタニア辺境領の王位はフランスの有力君侯家門のあいだを転々と移動した。が、14世紀から15世紀までの「百年戦争」でイングランド王位を持つ西フランク君侯がフランス王位をめぐる戦い敗れ、大陸から追い出されたために、イングランド王権のレジームは、フランス王権やエスパーニャ王権の影響力を受けながらも、大陸から切り離されて独自の領域国家として構築されていくことになった。
  こうして島国イングランド王国やスコットランド王国、ウェイルズ、アイアランド辺境領などの土台が据えられた。

  そのイングランド王権はブリタニアでの権力基盤を固めるために、ブリテン諸島の各地で継起的に絶えざる征服活動を繰り返し、王国領地を拡大していった。
  とはいえ、中世の王政レジームは、有力な貴族領主諸侯の同盟が王位の保持者を支持する限りで成り立っているものだった。イングランド王は直属家臣団バロンによって軍事的に支えられていたが、ある地方の征服が終わって1世代以上たてば、地方貴族としてのバロンの王への臣従=忠誠はかなり名目的なものに変化した。

  バロンの本来の意味は「男爵」ではない。「直属授封臣」が正式な意味で、王から直接に領地支配を認められ叙爵された領主ということだ。だからウェイルズ公(後継者としての王太子)やエディンバラ公(女王の夫君または王の後見人)は王族に属す公爵だが、王から直接に授封・叙任された貴族つまりバロンなのだ。

  さてその後、イングランド勢力のウェイルズへの侵略は、12世紀に始まった。が、それは王権の政策としてではなく、辺境領主=地方貴族の勝手な領地拡張闘争として始まった。彼らは、ウェイルズの諸部族集団を平野から北部の丘陵地帯に追いやる形で、領地を拡大していった。辺境領主たちは、奪い取った領地を自分たちの所領に好き勝手に編合した。
  そのさい、イングランド王権の権威が届かない辺境にあって、ウェイルズに所領を拡大した領主たちは、ウェイルズでの平和の妥協のために、ウェイルズの最有力君侯ルウェリン家に臣従を誓った。

  だが、イングランド王がウェイルズに有力家臣の軍隊を送り込み砦を築くと、辺境領主たちはイングランド王軍に合流して、ルウェリン家の勢力を駆逐し始めた。こうして、1285年にウェイルズ征服は外見上完了した。
  だが、ルウェリン家の権力を切り崩したのちに王の直属軍の主力が引き揚げると、辺境領主たちはしだいにふたたび自立化してイングランド王権の権威からは独立しようとする傾向が強かった。土着化すれば、地方貴族は王権の権威を無視しがちになるのだ。
  このときには軍事的・行政的統合は実現しなかったが、15、16世紀には王直属の貴族が指揮する軍隊が常駐し、常設の王権の機関を置いいたことでウェイルズはイングランド王権の行政機構に取り込まれていった。
  そのあいだ5、6世紀間、ウェイルズ人たちは、二枚舌を使い分けて独自性や自立性を保ちながら、イングランド王権への服属を拒否し続けたわけだ。

  統合されたのちは、征服によって仕方なくイングランド王権への臣従を強制されたという意識をもちながら、アイアランドやスコットランドのような政治的な自立性を保つことができなかった。そのことで、近代をつうじてウェイルズ人は屈折した独自の民族意識を形成することになった。⇒詳しい歴史研究の資料を読む

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