「でも、なぜなんです?」井狩は問いかけました。
きっかけは、体重計の目盛りでした。夏のある日、風呂上りに測った刀自(おばあちゃん)の体重は、少し前と比べて9kgも減っていたのです。
「ガンや」。先頃、葬式に行った先の老人もガンで死んだのです。
倒れる直前、10kgも体重が減ったといいます。
「私の命もあとわずかで消える」と思うと、衝撃でへたり込みました。
刀自は、窓を開けて外を見ました。
美しい山並みと豊かな緑がありました。「なんとお山は美しいんやろ。けど、やがてまもなく、このお山もお国ものになってしまうんか」
これは、本当は刀自の思い違いでした。たまたま夏痩せがひどかっただけだったのです。
刀自は人生を振り返ってみました。痛恨は、3人の子どもを戦争で奪われたことでした。国家がそれを強いたのです。
「愛一郎を奪い、静江を奪い、さらに定義まで奪った。それでも足らんと、こんどはお山さえ奪おうとする『お国』。では、そないな『お国』というものにかけがえのないものを奪われ続けた私の人生って、いったいなんやったんや?」
美しいお山は、地元紀州の山人、村人が長い長い苦心の末に生み出した宝だ。とりわけ、戦争の荒廃から立ち上がるために、民衆が耐えた労苦のたまものだ。それを、お国が取り上げてしまう・・・。
取り上げて民衆に分け与えるなら、まだしも。国有財産、公有財産は、政治家と上級官僚(お役人)が結託して、いいように動かし、使い回すだろう。
彼らは「公益」や権力を盾に利権や既得権益の聖域や障壁をつくり出し、癒着し、権威にまつろう者、利権の腐臭に呼び寄せられ群がる者どもに食い荒らされるのが、常則ではないか。
そんな悩み(虚脱感)に沈みかけたとき、あの者らが現れたのです。
よし、燃えつきかけた命のかぎり、お国に一泡ふかしてやろう。
これを機会に、お国からむしるだけむしったろ、と決意したのです。
「それにしても、100億円とはなんですか」と、刀自の回想を断ち切るように井狩が問い詰めました。
ところが刀自は、「世間では、あのことで、柳川家は大損害や、と思うていますんやろな」と言い出しました。
「何をおっしゃりたいんですか?」
「そら、損害は損害やが、世間が思うとるほどではないんです…柳川家にとって、実質の損害は100億の3分の1いうところですかいな」と、
説明を始めた刀自によると、
子どもらの実質的な負担は36億、あとの64億は「ほかにどこからも出所がないさかい、お国からということになりますかいなあ」
要するに、贈与税の課税対象資産の査定にあたって、突発的な災害や突然の経済的事変、あるいは雑損失の控除分として、この奪われた身代金について「お目こぼし分」が認められました。
それで、60億円あまりの納税額の差し引きがあったのです。
それは、いわば後からの資産のやりくりとして身代金に算入したと見なすことができるというわけです。
「ああ、それで100億円という数字が必要やたんですな。どうせ(相続税か贈与税として)税金は国に取られるものなら、少し国に吐き出させてやろう、と」井狩は感心します。