井狩はさらに、刀自(おばあちゃん)に詰め寄ります。
「それにしても、100億円を手にした誘拐犯たちはどこに消えたんですか?」
と問い詰めます。
刀自は、100億円を手に入れたあの夜から翌朝にかけての3人の「童子」の姿、それぞれに独り立ちしていこうとする若者たちの姿を思い浮かべました。
あの夜、身代金を積んだヘリに乗ったのは刀自でした。そして、刀自自身が100億円の受け渡しを采配したのです。
「R地区」を中心に、夜空を右往左往するように飛び回ったヘリは、クーちゃんの家の近くの空き地に降りて、25個の札入りビニル袋を投げ下ろしました。3人は袋を受け取り、納屋に運び込んだのです。
県警の実地試験では、4億円入りの袋を25個投げ下ろして拾い集めるのに、2〜3分あれば十分であることが確認されたということです。
25個の袋は、クーちゃん宅の納屋の2階に所狭しと並べられました。その上で、3人組は互いにビールをかけ合って、計画の成功を喜びました。
ところが翌朝、健次が刀自の部屋に駆け込んできて、泣きつくようにぼやきました。その話によると、
ビールをかけ合ってはしゃいでいるときに、出し抜けに、正義が真剣な顔つきになって言い出しました。
「俺、降りるわ」健次が何のことかと問いかけると、
「きょうも俺、クーちゃんの田んぼで稲刈り手伝ったわな。そんとき、クーちゃんが言わはるんや。邦子はんが俺と一緒になって、クーちゃんの養子になってもええと言うとる、と。こんなええ話、もう2度とないわな?」
「まあ……な」と健次は渋々認めます。
「そうやったら、俺、この金1銭でも受け取るわけにはいかんわなあ。……そやさかい、この100億、にいさんと平太であんじょう分けてや!」と言い張りました。正義は、分け前を受け取れという健次の説得にまったく耳を貸さなかったようです。
それきり、喧嘩別れみたいになって、正義はふて寝してしまった、と健次は刀自に訴えました。
「それで、平太は?」刀自が尋ねました。
「それやがな、あんちくしょう……」と健次は切り出しました。
「私は自分の取り分はきっちりもらいます。私の取り分は、1千万円だしたな。家族のためにそれだけは必要や。それだけは、もらいます」と言って、あとはいらないと言い切ったのです。
平太も健次の説得に動じなかったようです。
平太の母が急病になり、手術費、治療費、入院費などがかさんだが、高利貸しからの借金に頼ったため、1千万円が必要になってしまったのです。
平太は、この事件のあいだ、紀州一の資産家のおばあちゃんの一挙手一投足をつぶさに眺めてきました。刀自の言動や判断、ものの見方感じ方を知り、学びました。
そして、ラーメン単位で物の価値を見ていた自分と、100億円を掌で操るような刀自の金銭感覚、というよりもその基礎にある人生観、処世観、世界観とのケタの違いをはっきり知りました。悟りました。
要するに、自分で制御できない金銭を身につけるのは、おのれの分を越えることで、間違いだ、と理解したのです。人生に対する姿勢の位置づけ方を学んだようです。
その平太が、窓を開けて刀自を呼びました。
「おばあちゃん、すっかり世話になって。もうこれで会うことないやろけど、こんな俺でも何かできるいう、自信みたいなもんが沸いてきたわ。ほな、元気でな」と別れの挨拶をしました。
刀自は、自分の孫と別れるように目に涙を浮かべて別れを惜しみました。
1千万円が入ったリュックザックを背負った平太は、ハンカチを振ってエールを送るクーちゃんに見送られて、バイクを発進させました。やがて、山際の道を曲がると、平太の後姿は見えなくなりました。