さて1998年の3月、30代半ばのランドール(ランディ)・シェーンベルクはロスアンジェルスの大手法律事務所の経営陣――シニアパートナー重役――との面接に臨んでいた。
その数か月前、彼はパサディーナの大手法律事務所を退職して独立の個人法律事務所を開いた。だが、訴訟社会のアメリカでも、いや訴訟社会のアメリカだからこそ、人材や経営資源に乏しい個人の法律事務所が生き残るのはきわめて難しい。顧客を初手から開拓しながら訴訟=法廷闘争と調査などをこなし切るのは並大抵の苦労ではない。
妻と子どもを抱えたランディは、個人の法律事務所では親子3人が生活するのに十分な報酬所得を得ることができないことを悟った。しかも、彼は法科大学院で学ぶために借りた奨学金――アメリカでは20世紀末でも1000万円になっただろう――の返済にも追われていた。
というわけで、ランディはロスの大手法律事務所「シャーマン・ブラウン」に職を求めたのだ。
さいわいランディの優秀さは西海岸では知られていたのと、シェーンベルク家が有能な法律家を輩出している――彼の父親は有名な裁判官だった――ため、アソシエイトとしての採用面接試験にパスした。
とはいえ、彼の地位はパートナー見習いアソシエイトだから会社が割り振ってくる仕事(訴訟案件)をこなさなければならない。
ところが、彼の母親はロスで洋服店を経営しているマリア・アルトマンという高齢の女性の案件の相談に乗ってくれと、押しつけがましく頼み込んできた。とはいえ、母親の顔を立てるため、とりあえずマリアと面談して、案件の内容を聞いてみることにした。
こうして、ランディはマリアのブティックを訪ねた。そこでマリアが切り出した要望は、ナチスによって奪われ、戦後はオーストリア政府の所有・管理となっているクリムトの有名な肖像画を取り戻したいというものだった。 そして、マリアから姉の弁護士がおこなった交渉の結果を聞いた。
たしかに、その年からオーストリアの美術作品返還法が施行されていた。しかし、オーストリア政府との交渉は途方もなく時間と手間、それゆえ費用を要するもので、この手の案件を専門とする有力法律事務所でないと手が出せない案件だ。専門の弁護士集団が取り組んでも、何年もかかり、そのあげく敗訴する場合が非常に多いのだ。
優秀で誠実な弁護士ランディは、マリアに正直にアドヴァイスした。
「この手の案件を専門に扱う法律事務所と弁護士をご紹介しましょう。おススメできる弁護士はアメリカには3人ほどいます。でも、かなりの費用がかかりますよ」と言って、弁護士費用の見積りを提示した。おそらく数十万ドルの金額を示したのだろう。
「あら、そんな金額を私は準備できないわ。今の私にある資産はあのブティックだけですもの。
そんな弁護士には頼めないわ。それより、あなたが普段の仕事の空いた時間を使ってやってもうらだけでいいわ」
マリアは割合気楽に考えていた。
「こんな面倒な事件を僕が片手間で扱うのは無理です」
そう言って、ランディは断った。
ところが、マリアはしぶとく食い下がった。
「でも、この書簡の束と資料にざっとでいいから目を通していただけないかしら。ユダヤ系という同胞のよしみで、ね!」
仕方なく、ランディは手紙の束と資料を持ち帰った。そして、事務所での仕事の合間に手紙と資料を読み、パソコンで関連事項を検索してみた。