ところで、この映画作品では国民国家の法体系をめぐる2つの問題文脈が交差し、絡み合っている。1つは、オーストリアの国有資産としての「アデーレの肖像画」の所有権が国外の1民間人の要求によって移転されてしまったこと。2つ目は、この肖像画がオーストリア政府の所有となるにいたる過程で、ナチスによる違法な略奪・没収という政治的暴力が介在したという歴史的な事実だ。
この映画は、2つ目の問題に焦点を当てて、「ユダヤ人迫害」という過去の歴史に向き合ったさいに、一方でユダヤ系アメリカ人のマリアとその弁護士、他方でオーストリア政府がどのように行動したかを描いた物語だ。
だが私としては、オーストリア法体系――国家の所有権――に外国人が風穴を開けたという国際的次元での現代法の問題について、制作陣の意図を超えた問題提起をしているように思える。
それは、私が資本の経営活動の世界化と国民国家の法体系の変容という事象――2つの事象の相関性――の研究をしていたせいかもしれない。
歴史的に見ると、「国家主権の完結性なるもの」を訴求する国民国家の建前ないし主張は、これまで常に多分に幻想でしかなく、国家の法定刑の自己完結性というのは法イデオロギー上の擬制――というよりも欺瞞――だった。
なるほど、世界経済のなかで個別の国民国家は独自の政治的・軍事的単位として振る舞おうとしてきた。だが、どの時代にも諸国家の軍事同盟は存在したし、同盟の内部では優劣ないし支配=従属の序列関係が形成されていた。
また、資本の経営活動は中世版期以来、国境を超えて展開されていた。というよりも、ヨーロッパ全域を舞台とする商業資本の世界市場運動は、国民国家や国境制度ができ上るはるか以前から存在し、資本の世界市場運動が一定の規模に達してから後になって、近代国民国家ができ上ったのだ。
そして、国民国家が成長するのにともなって、それぞれの中央政府は――相互の対抗関係・国際関係のなかで――社会経済への介入を系統化しながら国民的な枠組みによる規制や組織化を追求してきたのだ。法体系(法制度)がそのための手段となってきた。
法体系とは、人びとの行動や関係を規制する規範であり観念すなわちイデオロギーの束だ。つまり、国民的規模で社会関係を統制し組織化しようとする国家意思の表現形態なのだ。
そういうしだいで、国家は主権の担い手たるべく、その法体系の自己完結性=全体性を主張するが、国際的な次元で貫徹する権力関係や資本の運動によって常に影響されてきた。
とはいえ、国家どうしは、それぞれに主権の完結性を求める存在として相手の並存を相互に認め合うために、建前上、相手の主権を互いに尊重するという法的原則を認め合ってきた。私たち市民も、そういう国家意思を公教育やマスメディアをつうじて注入されマインドコントロールされてきたので、国家主権の全体性や法体系の自己完結性が「当たり前」のものとして意識するようになっている。
そしてまた、私たちは国民意識を意識にインプリントされているので、諸外国に対して自国の優位を求めがちになる。それはまた、自国の歴史について美化したがる傾向をともなう。
だから、オーストリアの政府や市民が、ナチス支配期の違法な行動やユダヤ人迫害という汚辱の歴史からできるだけ目を背けて、優れた美術品の外国への返還を拒否ないし回避したがる傾向も生まれてくるのだ。
そしてまた、自国の法体系の完結性を求めたがる。法規範は経済やテクノロジーよりも多分に観念的な事象だから、擬制や欺瞞がまかり通りやすい。
日本やアメリカよりもずっとリベラルな国家でさえも、そうなのだ。