こうした脚色で制作陣が描き出したかったのは、ナチス時代のオーストリアの政府と国民の責任を引き受け自己批判し、略奪美術品を変換しようという外見的な姿勢を見せながら、国家ないし国民としてのメンツの維持に汲々としながら、じつは高価な国有資産を手放したくないという本音が丸見えだったという事態なのだろうと思える。
さて翌日、ランディとマリアは、美術品返還審問会の議長がプライヴェイトで訪れているショッピングモールにやって来た。目的は美術館の資料室で探し出した一連の文書を議長に手渡すことだ。
では、なぜ審問会に証拠資料を提出する公式の手続きを取らなかったのか。
理由は、審問会は自国に不利な証拠資料の提出を拒否し、門前払いしているからだ。すなわち、審問会での判定に必要な資料はすでに全部そろえられているから、もはやほかのものは必要ないというというわけだ。オーストリア政府が自ら用意した資料だけで判断し、外国人が要した資料を判断の参考するつもりはないという排他的な姿勢だ。
2人はモールの通路で議長に会って挨拶し、資料集を手渡そうとした。だが、議長は「公式に手続きを経ていないものは受け取れない。資料はすでに完備している」とこれまた慇懃無礼につき返した。
とかくするうちに審問会が始まることになった。ランディは申請手続きによって、ほかのユダヤ系市民とともにマリアも審問会で意見陳述する機会を確保したが、マリアは審問会への参加を拒否した。オーストリア政府の責任を追及するためには、忘れたい過去を掘り返し直面することになるのだが、それが耐えがたい苦痛だと感じていたからだ。
仕方なく、ランディは法定代理人として肖像画の返還を求めるマリアの立場を代弁することにした。
ところが、ランディが陳述を始めると会場にマリアが現れた。傍聴席にいたチェルニンはマリアに椅子を勧めた。
そしてマリア自身が意見陳述することになった。彼女は、亡命を余儀なくされアメリカに居住することになったが、ヴィーン市民としての尊厳を今でも保とうとしている。そして、オーストリア政府にも――不当な行為によって保有することになった肖像画を返還するという――名誉ある行動を求めると要求した。
しかし、審問会の判定は、肖像画そのものはアデーレの意思にしたがって正当にオーストリア政府の所有となったものであるがゆえに、返還はできないというものだった。ただし付帯条件として、そのほかの美術品や宝飾品については、個別の査定を経て汽船による賠償または現物の返還に応じる用意があるとしていた。
つまり、「アデーレの肖像画」については、何としても返還を拒否するという姿勢だった。
審決後にマリアは、所有権の帰属を自らに認定してもらえれば、ベルヴェデーレ美術館でこれまで通り展示の継続を認め、オーストリア国内に絵画をとどめてもよい、という譲歩案を提示したが、これも完全に拒否された。
そんな審問会の会場から出るとき、マリアはヴィーン市民のひとりから声をかけられた。「もはや過去の歴史は忘れるべきだ」と。
それがオーストリアの一般市民の心理なのかもしれない。「後ろめたい過去について指摘されるのはいやだ」という気分だ。
審問会の判定に不満な者は、オーストリアの裁判制度をつうじて不服申し立てをおこない、訴訟で政府と争うしかなかった。ただし、マリアが訴訟を起こす場合、供託金として肖像画の評価額の一定割合に当たる180万ドルを納めなければならないものとされた。
それほどの巨額の供託金が必要であること自体、一般市民には返還訴訟を起こす余地がまったくないという状況だ。
ところで、審問会判定の付帯条項や供託金の描き方にはかなり脚色があるかもしれない。というのは、実際には、マリアは「アデーレの肖像」のほかにも絵画の返還を求めていたといわれていたからで、それゆえ、供託金の額も複数の絵画についての合計額となるはずだからだ。