の映画は、1930年代後期から1940年代まで、生活の苦境があったとはいえ、ナチズムに傾倒したオーストリア一般民衆の意識構造と政治的選択をめぐる責任を鋭く問いかけている。
あれほど熱狂的にドイツ帝国軍の行進を熱狂的に歓迎し、反ユダヤ主義のみならず、盗難ヨーロッパ諸民族に対する抑圧と迫害に能動的に手を貸したオーストリアという国民の歴史的な存在構造を批判的に描き出しているのだ。
そして戦後も、国民――政治的に組織された住民集合――としてのオーストリアはその歴史的経過について――深刻かつ根底的にという程度には――自己批判をしていないということだ。自己批判をしなかったかわりに、ナチスの侵略と抑圧に手を貸してしまったことに対する逃れがたい「うしろめたさ」から東西冷戦構造のなかでは「中立」を守ったのだろう。
もっとも、オーストリアのナチス支配期の歴史への自己批判という点では、私たち日本人もとやかく言えるほどの立場ではない。ことに政府だけでなく、太平洋戦争に熱狂し――例えば初戦の勝利の報に提灯行列が各地でおこなわれた――客観的には加担した一般民衆の責任という点では。
マリアがオーストリア行きを拒んだため、ランディは単独でヴィーンに行くことにした。
ところが、出発直前の深夜、マリアからランディに電話があった。悩んだ末にヴィーンに一緒に行くことにするというのだ。
「夜が明けたら気が変わってしまうかもしれないから、今電話したのよ」というのがマリアの言い分だった。
つまりは、その日も深夜まで悩み続けて決断した……そのくらい過去=歴史との対峙は苦悩と痛みがともなう決断だったということだ。
「やれやれ、複雑な性格の人だ――対応が面倒な人だ」というのが、そのときのランディの印象だった。というのも、迫害や戦争で命からがら故国を負われた人びとの心情は、たぶん経験者でないと理解できないからだ。
同じユダヤ系でも、暗黒の時代を経験した世代とその後の世代では感覚が違うのだろう。アメリカのユダヤ人主流派が、現在のイスラエルの右翼政権のパレスティナ問題に対する姿勢に安易に同意するのは、迫害され収奪される側の痛みを体験していないからだろう。
ともあれ翌朝、2時間もの時間的余裕を見てランディとマリアは空港に向かった。2人を送り届けるためにクルマを運転するのは、ランディの妻だ。マリアはそれでも、運転を急がせた。
その妻が「2時間以上の余裕を見てあるから大丈夫よ」と笑顔を返した。
「あら、空港の免税店で高級化粧品や香水を探さなくちゃいけないから、ギリギリよ」
これは女の性なのか、それともユダヤ人的発想なのか。