黄金のアデーレ 目次
尊厳の回復としての…
「ユダヤ人」とは何か
クリムト名画の数奇な運命
忌まわしい過去との対面
マリアとランディ
名画の価値に惹かれて
汚辱のオーストリア史
歴史への視点
マリアの決断
オーストリアで
H・チェルニン
重すぎる扉
危機一髪の亡命劇
国民国家という障壁
「国家主権」の風穴
訴   訟
裁判の結果
法イデオロギーと現実
国境を貫通するメカニズム
おススメのサイト
美術をめぐるスリラー
迷宮のレンブラント
盗まれた絵画の行方

危機一髪の亡命劇

  マリアは、ヴィーン訪問から帰国後まで、ナチス支配期のオーストリアの社会状況やらユダヤ人迫害の経験、さらに自分たち夫婦の亡命いたる経緯を折にふれて回想していた。

  1937年、マリアは同じくヴィーン在住のユダヤ人青年、フリードリッヒと結婚した。フリードリッヒは富裕な企業家家門の出自でオペラ歌手だった。結婚式にはヴィーンの有力者のほとんどが顔をそろえ、バウアー=ブロッホ家とアルトマン家との婚姻を祝福した。
  ところが間もなく、オーストリアはな室・ドイツの支配下に併合され、ヴィーンにはドイツ帝国軍が進駐してきた。ドイツ軍の行進をヴィーンの民衆は熱狂的に歓迎し、そして反ユダヤ主義の嵐が吹き荒れることになった。
  ゲシュタポとドイツ軍は、オーストリアの政府や警察、軍を膝下に服属させながらユダヤ人迫害を系統的に組織化していった。
  街中のユダヤ人の店舗を閉鎖させ、扉に「ユダヤ人」の目印をペンキで書かせた。そして、家財を没収してから国外追放に処し、やがては強制収容所に送り込んでいった。

  マリアの夫フリードリッヒは、弟が経営する繊維品会社をナチス政権が没収する際に、経営資産の引き渡しが完了するまで人質としてダッハウ収容所に拘束された。   ドイツ軍のヴィーン行軍に危機感を抱いたマリアの叔父フェルディナンドは、マリアの姉ルイーゼをともなってロンドンに亡命した。だが、マリアの一家――両親と夫のフリードリッヒ――はしばらくヴィーンに留まって、家産の保全をしようとした。
  ところが、またたくまに事態は悪化し、ヴィーン中心街にあるバウアー=ブロッホ家にゲシュタポが乗り込んできた。そして、目ぼしい美術品や高価な家具、宝飾品を片端から没収していった。


  マリアの父親グスターフがこよなく愛していたストラディヴァリのチェロも奪われた。居間に飾られていたヴァルトミュラーの絵は、没収されたのち何とヒトラーの山荘に飾られることになった。
  「アデーレの肖像画」はヒトラーによって「退廃芸術」の烙印を押されていたため、しばらくブロッホ=バウアー家に残されていたものの、現代芸術に造詣の深いグリムシュッツの目に留まり、ベルヴェデーレ美術館に所蔵されることになった。

  オーストリアのナチス党ははじめのうちユダヤ人の財産没収と追放を求めていたが殺戮までは考えていなかったのだが、併合後ほどなくドイツのナチス党の指揮下で強制収容所に送り込むようになった。

  生き延びるためにマリアは両親をヴィーンに残したまま、フリードリッヒとともに亡命することになった。
  その息づまる逃亡劇がサスペンスフルに描き出される。
  ブロッホ=バウアー家には監視のゲシュタポ将校が常駐していたが、夫婦は薬剤店アポテーケに薬を買いに行くふりをして逃げ出し、知り合いのクルマで駅まで行き、そこから列車の旅を続けて空港にたどり着いた。さらにフリードリッヒがオペラに代役で急遽出演することになたという理由で、ケルン行きの航空機に登場することにした。だが、途中、アルプス山中の乗り継ぎ空港から国外亡命することになった。

前のページへ || 次のページへ |

総合サイトマップ

ジャンル
映像表現の方法
異端の挑戦
現代アメリカ社会
現代ヨーロッパ社会
ヨーロッパの歴史
アメリカの歴史
戦争史・軍事史
アジア/アフリカ
現代日本社会
日本の歴史と社会
ラテンアメリカ
地球環境と人類文明
芸術と社会
生物史・生命
人生についての省察
世界経済
SF・近未来世界