その後、ランディはマリアとカフェに入った。ヴィーンで調査と交渉の支援を申し出た人物と会い、打ち合わせるためだ。その人物とは、ヴィーン在住の市民、フーベルトゥス・チェルニンという30代後半から40代前半くらいの年齢の男性だった。
チェルニンはジャーナリストで、ヴァルトハイム大統領のナチスと絡む軍歴・経歴を調査し公表したのも彼だった。
彼は、ナチス時代のオーストリアの政府ならびに一般民衆の責任についても自己批判すべきだと考えている。
映画では、ナチス時代にナチスによって掠奪された美術品の返還のために献身的に打ち込む理由はこう描かれている。
すなわち、チェルニンは彼の父親が戦争中に狂信的なナチス党員でナチスの迫害や略奪などに手を貸したことを知ったことから、彼の家族や自身を含めたオーストリア市民が過去についての責任を負い、自己批判の義務があると考えているからだ。
愛国心とは、自国の恥ずべき歴史を率直に受け入れて自己批判し、しかるべき責任を引き受け、その誠実な反省と行動で自国の名誉・威信を回復しようという態度だ。チェルニンはそう考えているのだ。
ところが、彼の父親テオバールトは有力貴族で、たしかにナチス党員だったが、戦争中にナチス政権への反逆罪で投獄されている。ナチスの残虐行為に対して非協力的だったからだと見られる。つまり、狂信的なナチス党員ではなく、ブームに乗った「世渡り」のためにナチス党に加盟したものの、ソリが合わなかったようだ。
戦後、テオバールトは自己批判を経て、妻とともにむしろ積極的にナチス時代の問題の発掘・告発に取り組んだようだ。フーベルトゥスがジャーナリストとしてヴァルトハイムなどオーストリア人名士が隠してきたナチス時代の経歴の暴露と告発を雑誌上でおこなったさいにも、資料の発掘ないし提供をおこなったと見られる。
つまり実際には、フーベルトゥスの真摯な批判活動を支援した立場だといえる。フーベルトゥスは父親あるいは両親の薫陶を受けて、オーストリアの歴史的責任を明らかにするジャーナリズム活動に打ち込むようになったと見られる。
この点は映画での脚色の度が過ぎている――歴史考証担当の学習不足が原因か――思われる。
チェルニンはマリアとダンディに対して、 ベルヴェデール美術館の休館日の翌月曜日に美術館の文書資料室―― Archiv ――に立ち入って調査する機会を提供した。美術館に勤務する学芸員の知り合いの協力を得てのことだった。
その休館日にマリアとランディは「アデーレの肖像画」の寄贈の経緯に関する文書などを探し出すため、チェルニンと学芸員の案内で美術館の文書資料室にこもって調査した。
その結果、アデーレ本人の署名した文書を発見した。それには、「彼女の夫フェルディナンドが彼女よりも先に死去した場合という前提条件で、肖像画を美術館に寄贈する」という遺言が記されていた。
ところが、アデーレは1925年に死亡し、夫のフェルディナンドは1938年に亡命して1946年まで生きているから、寄贈の前提条件が失われていることが判明した。しかも、クリムトに肖像画の制作を依頼したのはフェルディナンドで、絵画の代金を支払ったのも彼だった。したがって、肖像画の所有権はフェルディナンドにあることになる。
であってみれば、アデーレの寄贈自身には肖像画を美術館に寄贈する権利はないものと判断されることになる。
すでに述べたように、この部分に関する描写もかなり脚色されている。すなわち、アデーレ自身は文書で具体的に「肖像画の寄贈」の意思を表明したわけではない。あくまで「国立美術館に展示することを希望する」という表記にすぎなかった。
さらに、その文書を資料館で発見したのはランディではなく、チェルニンだったらしい。ランディは、その文書をもとにオーストリア政府と法的に戦う戦術を考えたにすぎない。この点でもずい分脚色されている。もしかしたら、この難しい社会派の映画では、事件解決の功労者をアメリカ人にした方が観客の受けが良いと判断したのかもしれない。