黄金のアデーレ 目次
尊厳の回復としての…
「ユダヤ人」とは何か
クリムト名画の数奇な運命
忌まわしい過去との対面
マリアとランディ
名画の価値に惹かれて
汚辱のオーストリア史
歴史への視点
マリアの決断
オーストリアで
H・チェルニン
重すぎる扉
危機一髪の亡命劇
国民国家という障壁
「国家主権」の風穴
訴   訟
裁判の結果
法イデオロギーと現実
国境を貫通するメカニズム
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美術をめぐるスリラー
迷宮のレンブラント
盗まれた絵画の行方

「国家主権」の風穴

  そんなある日、ランディは街中の大きな書店でグスターフ・クリムトの絵画作品集が販売されているのを知った。出版元はヴィーンのベルヴェデーレ美術館だった。
  そのときランディは、外国主権免責法(1976年制定)―― Foreign Sovereign Immunities Act――の例外的な適用除外を求める訴訟を起こせるはずだ、と直観した。 この法律は、合衆国と正常かつ友好的な外交関係にある外国の主権(公的機関の行為)に関する事項に関しては、合衆国市民は利害対抗的な訴訟を起こすことはできない――正常かつ友好的な外交関係を阻害しないために――という内容のものだ。

  さりながら、アメリカ政府は敵対諸国家ないし友好国でも国家の利害が対立する事案に関しては、ヘゲモニー国家の傲岸さを振りかざし、免責除外として民事・刑事を問わず訴訟を起こすことを厭わない。
  とはいえ、国際的に利害対立にさいして、相手側の利益・権利を棄損するような訴訟をやたらに認めると、相手国の敵対的な訴訟を呼び起こし、泥沼訴訟合戦になりかねないので、「主権免責」という強い自己抑制をはらたかせるということになる。

  つまり、アメリカ政府の外交を妨げるような訴訟に対して、友好諸国政府は主権を尊重され、主権の完全性を掘り崩すような請求に対して免責されるという内容だ。
  しかも、この法律が制定された1976年よりも以前の事案についても訴訟の遡及効を認めないというものだ。

  この法律の原則によると、たとえばマリアの絵画返還要求のようにオーストリア政府機関=国立美術館の資産となっている美医術品について、アメリカ市民であるマリアは返還請求する法的権利を持つことはできない、ということになる。
  ただし、実際の裁判例としては、いくつかの例外があった。アメリカでは法律が制定され適用されても、実際の裁判などによって法律の欠陥や不足分――想定外の問題への対応――を補っていくという法体系になっているのだ。

  アングロ=アメリカン法体系ならびにゲルマン(ドイツ)法体系の要素が強い諸国では、法律は不完全で会って、制定後の訴訟などの調整=修正によってその不備を補完していくという法思想で動いている。
  法の制定前の検討でも事柄があるうえに、法は制定直後から古びていくので、時代の要請に追いつくために、制定法以外の訴訟などによって、法が想定しなかった新たな条件に対応していくというわけだ。
  ところが、日本では「制定法第一主義」で、しかも行政機関の裁量が幅を利かすので、社会の変化に対応した法の運用や訴訟による問題解決がうまくいかない。法規範に関する発想が欧米と根底的に異なっているのだ。

  そこで、こういう例外があった。
  外国の公的機関がアメリカ国内で商行為(経済的活動)を営んでいる場合、その取引にかかる財物が不法行為または違法な手段によって獲得されたものであるものについて、損害賠償または返還を要求することができるという判例だ。
  ランディの発想では、オーストリアの公的機関であるベルヴェデーレ美術館が、クリムトの「アデーレの肖像画」を掲載した出版物の販売という形で、現在アメリカ国内で商行為をおこなっている。しかも、その絵画はナチスによって違法に没収された結果、美術館の所有物になったものだ、ということになる。
  してみれば、マリアの絵画返還請求が合衆国の裁判所で例外的に受理される可能性があることになる。

  とはいえ、返還訴訟の原告側は、外国政府機関が違法に絵画を手に入れたことを明白に証明する証拠を提示しなければならない。それは、きわめて難しい課題だった。
  だが、ランディはこの一点に賭けて起死回生の挑戦を試みようと考えた。 それで、彼が勤務する法律事務所にこの訴訟を引き受けるように求めたが、リスクが大きすぎるという理由で拒否された。仕方なく、ランディは法律事務所を辞めて単独でこの訴訟に挑む道を選んだ。
  ところが、大手法律事務所を辞めたことを聞いた妻は大きな衝撃を受けた。というのも、彼女はまもなく2人目の子供を出産する予定で、これまで以上に生活費がかかるようになることは確実で、そんなときにランディが高給の職を辞めたからだ。
  嘆く妻に、ランディは富裕な父親から援助を受けるから大丈夫だと請け合った。彼の家門はかなり裕福なのだ。

  しかし、問題はマリアだった。 マリアはランディの提案を強く拒否した。
  「これまでやるだけの努力はやり切ったわ。それで、ようやく諦めて、過去を忘れ去ろうと努力しているのよ。 それなのに、おぞましい過去とふたたび向き合うなんて、もうこれ以上無理です!
  まだ闘い続けようとするあなたは、もう私の弁護士ではありません。解任します!」
  それでも、ランディは執拗に食い下がって説得を試みた。
  「私は法律事務所を辞めて背水の陣で臨もうと苦闘しているのに、あんまりだ。
  今私自身が過去の歴史と向き合う必要性に目覚めたんです!」
  ランディの覚悟を知ったマリアはランディの提案を受け入れた。「 わかりました。あなたのやりたいようにやってみなさい」と。

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