この映像物語の妙味は、ナチスのユダヤ人迫害だけではなく、ナチスの支配を歓迎してその反ユダヤ主義に呼応してユダヤ人迫害に手を貸したオーストリア国民全体について厳しい批判の目を向けている点だ。
そして、そういう汚辱の歴史が実在したことを受け入れることを事実上拒否するオーストリア国家の体質を皮肉っていることだ。そして、親の愛国心(祖国愛)とは、そういう汚辱の歴史をも自国民の歴史として冷静に受け入れ、しかるべき責任や代償を引き受ける覚悟をともなうものだ、と主張しているのだ。
■ナチス待望の意識状況■
1930年代の長期の大不況のなかでオーストリア=ハンガリアの一般民衆は貧困化し経済的困窮のなかで呻吟していた。貧富の差も著しく拡大した。富裕階級に対して一般民衆から羨望と怨嗟が向けられていたが、民族差別意識からとりわけユダヤ人富裕層に強い憎悪や侮蔑が向けられた。
深刻な不況と貧富の格差の拡大のなかで階級対立も激化していた。右翼と左翼との政治闘争も熾烈化した。
1932年に政権についたキリスト教社会党のドルフス内閣は、親イタリア・親ムソリーニ路線を推進して独裁的権力を獲得し、翌年までに共産主義者の非合法化し社会民主党の禁圧を断行した。左翼ないし社会主義者の組織的活動は絶滅してしまった。他方で、ドルフスはイタリア型ファシズムに傾倒しながら、ナチス党の活動を禁止した。
しかし、社会の政治状況は一挙に右傾化していき、政権とキリスト教社会党の支持基盤である右翼の運動の一定部分がナチス的な色彩を帯びるのは避けられなかった。
オーストリア=ハンガリーでもドイツでの動きに呼応するように、反ユダヤ主義と国民社会主義思想が跳梁跋扈する素地があった。長期に持続する不況による経済的困窮と格差の拡大、富裕階級に対する一般民衆の怨嗟、そして特権層だけを意識した政権運営……。
隣国ドイツではナチス党が政権を掌握しヒトラーが指導者となって以来、国家装置の執拗な介入によって――軍事化と結びついて――独特の経済成長と所得増大がなしとげられていた。オーストリアのナチス党は外観上の「ドイツの繁栄」を称揚して、自国での「ナチス革命」の必要性を訴えた。
1934年にはナチス党によるクーデタでドルフス首相が処刑された。ナチスのクーデタを鎮圧した教育相シュシュニクが政権を組織した。その政策はファッショ的傾向をさらに強めていった。
そして事実上、イタリアとオーストリア=ハンガリアとのファシスト政権同盟が形成された。シュシュニクとしては、ムソリーニ政権の後ろ盾によって、ドイツの併合要求を阻止しようとしたのだろう。
シュシュニクは、ナチス・ドイツとの併合に反対する世論が多数だという状況を背景に人民投票を実施し、ドイツの併合要求を退けようとした。
ところが、右翼独裁政権はオーストリアの国家としての体面と威信を保つことに汲々として、民衆に対しては高圧的・専断的に臨んだ。だが、ナチス・ドイツの圧迫には極めて脆かった。
1938年3月、ヒトラーはオーストリア国境に国防軍を配置展開させ、シュシュニク首相の辞任を強要した。ヒトラーがオーストリアに併合を迫って国境に大軍を終結させ、オーストリアが拒否すれば軍事的侵攻によって併合する状況になっていた。そして、オーストリアの後ろ盾を約束していたイタリア・ムソリーニ政権は、枢軸同盟の利害を優先して、シュシュニク政権を見殺しにした。
シュシュニクの辞任後、政権を継承したのはナチス党員インクヴァルトだった。インクヴァルト首相はゲーリングの指示を受けて、ヴィーンへのドイツ軍の侵攻・進駐を要請した。そして、一般民衆にはドイツ軍への抵抗を禁止し、むしろ歓迎するよう求めた。
ドイツ軍は抵抗を受けるどころか、民衆の熱狂的な歓迎を受けながらヴィーンに行進した。 ドイツ軍が行進するや沿道には多数の民衆が押しかけ、鍵十字旗を振ったり手を振ったり花束を渡したりしたのだ。
そのシーンは、この映画でも描かれている。
あろうことかインクヴァルトは独断で国家統合を認める法を政令(内閣命令)としてその場で起草署名し、あっけなく併合を承認した。
翌4月、オーストリア・ナチス党が中心となった親ナチス派が人民投票を準備し、国家統合の内容が詳しく知られることもなく投票がおこなわれ、97%の圧倒的な賛成多数で統合は承認された形になった。
ところが、この統合は対等な国家間の統合ではなく、オーストリアはドイツ帝国の属州にすぎない「東部辺境州 Ostmark 」の格付けとなった。オーストリア国籍の住民は、ドイツ人に対して従属的な国民として位置づけられた。
ナチス・ドイツに追従すれば、そこそこの経済的恩恵が与えられた。中央政府や地方政府の官僚たちは保身や出世のために、次々にナチス党に加盟した。
のちに国連事務総長、さらにオーストリア大統領になるヴァルトハイムも学生時代にナチス学生同盟に参加し、行政官や軍事としての昇進・出世をもくろんだ。彼だけに限らず、強い上昇志向を抱く多くの若者たちが、そういう「ナチス・ブーム」に便乗したのだ。