イングランドでは、15世紀の末葉にテューダー王朝が成立する。
王権の権威を拡張するために、王権はアイアランドへの侵攻を繰り返した。それまでほんの名目にしかすぎなかったイングランド王のアイアランドへの宗主権を、何とか実効的な支配権として確立しようとしたのだ。けれども、辺境の地への軍の継続的な派遣はできなかった。
そこで、アイアランド諸侯(有力部族長の同盟)のまとめ役だったキルデア伯フィッツジェラルド家を現地の総督代理(王の代官)とすることで、イングランド王の権威を取り繕うしかなかった。
けれども、テューダー王権は執拗だった。
15世紀前半からヘンリー8世は、王室財政の逼迫を打開するために、ローマ教会の組織への統制を強めて財産を王室財産に組み入れていった。そして、教会や修道院の所領を直属の貴族たちに授封して、王権の支持基盤を強化しようとした。イングランドの教会組織への教皇庁の統制――教皇庁への巨額の納税・送金を要求する権力とともに有力貴族層への精神的影響力――を遮断して、王権の宗主権を貫徹する、これが「宗教改革」の実態だった。
イングランドの教会資産と信仰に対する王権の支配を完結させるということ。これによってイングランドは国民形成への道を歩み始めた。
貪欲な王権の支配欲はアイアランドにも向けられた。
1534年には、トーマス・クロムウェルを派遣して王権の権威の誇示をはかった。これに反発して反乱を起こしたキルデア伯家を滅ぼした。そして、王の統制権がおよぶ範囲で、土地所有にイングランド法を無理やり導入した。土地支配権を団体としての部族から切り離して部族長を所有者(地主領主)として認め、その土地支配権=領主権を王権への臣従=服属と引き換えに保証した。
ヘンリーは1540年には、アイアランドの王位保有を宣言した。42年には、イングランド王テューダー家が統治する「アイアランド王国」が成立した。とはいえ、全体から見れば、ごく小さな範囲の拠点にしか、王権の支配はおよばなかった。
なにしろ、以前からアイアランドに定着して、王権に臣従を制約しているイングランド貴族領主層は、すっかり土着化して、ほかの部族長たち(ローマカトリック教徒)と連合していた。
となると、アイアランドへのイングランド王権の拡張は、カトリックのアイランドでの宗教=教会改革として暴力的に強行されることになった。つまり、信仰の相違を理由として、領主や自由農民層から土地を没収したり、売渡しを強制したりした。王権の支配下にはいった土地を土着化させないために、王に従順な貴族に授封したり、イングランド人植民者(農民)に有利な条件で引き渡したりして、植民地化していった。
土着の慣習や秩序、信仰を破壊するイングランド王権の統治に対する、土着貴族や農民の抵抗や反乱が繰り広げられた。こうして、アイアランドでも、血なまぐさい宗教紛争が展開されることになった。
1558年にエリザベスが王位を獲得してから、アイアランドでの闘争は一段と苛烈になった。王権によって派遣され、侵攻した貴族たちは、土地を暴力的に略奪してプランテイションを建設し始めた。蜂起と戦乱は全土に広がった。
おりしも、ネーデルラントや北海方面での覇権をめぐってイングランド王権とエスパーニャ王権とが熾烈な戦いを繰り広げていた。それはまた、アングリカン=プロテスタントとローマカトリックとの宗派間の闘争、宗教戦争という姿態を帯びてもいた。
カトリック派のアイアランド勢力は、イングランドとの対抗上、ヨーロッパ大陸と大西洋で巨大な権力をふるうエスパーニャと教皇庁に支援を求めた。
イングランド王権は大規模な軍をアイアランドに送り込み、反イングランド派の領主や土着勢力の拠点を粉砕していった。アイアランド勢力は主要な拠点を失ったため、ゲリラ戦を仕かけるしかなかった。エリザベスの軍は残忍な殲滅作戦(絶滅戦)で応じた。
こうして、17世紀はじめまでには、抵抗勢力はほぼ潰滅させられ、封じ込められた。
王軍によって略奪された土地は、いまでは王権の強力な支持基盤となっていたロンドン・シティの金融商人・貿易商人(貴族化して王権の高官となっていた)や投機筋に売り渡された。こうして、イングランドの地主領主制が無理やり移植されることになった。