原作者ジャック・ヒギンズは、アイアランド紛争に関連する政治・軍事スリラーを多数ものしている。彼の経歴や作風などについては、このほかにも彼の原作をもとにした映像作品を扱う予定なので、そちらに回すとして、今回は、この『黒の狙撃者(司祭)』という作品の背景となっているアイアランド紛争問題の歴史について考察する。
1999年年末に北アイアランド自治政府が正式に発足し、2001年にはIRAが武装解除を始める。というわけで、21世紀になってからは、血で血を洗うような暴力の連鎖、憎悪の連鎖は、すっかり過去のものになったようだ。
だが、私の世代(1955年生まれ)にとっては、北アイアランドの現代史といえば、ブリテンの支配とこれへの反乱を繰り返すIRAとの暴力的抗争の歴史という印象が強い。私の思春期から40代半ばまで、絶えることなく、北アイアランドでは軍事的・政治的紛争が続いていた。
このドラマでは、かつての冷戦構造のなかで旧ソ連=KGBが、アイアランドに凄腕の暗殺者=コヒーリンを送り込んだ。ようやく和平・妥協の兆しが出てきた、ブリテン・プロテスタント同盟とIRA・カトリック同盟との敵対をふたたび泥沼に退き戻そうと企図したのだ。それくらい、1980年代までは、北アイアランド問題、いやアイアランド全域でのプロテスタント(イングランド派)とカトリック派との対立は深刻だった。
なにしろ、ノルマン王朝イングランドの支配階級によるアイアランドへの侵略と支配、抑圧、収奪は13世紀から700年以上――そのうち「最近の400年間」は、実に過酷な状況――におよぶ長い歴史を持っているのだ。
日本では、学校で「近代的民主主義の母国」と教えられるイングランドは、ブリテンのすぐ隣にあるアイアランド島に対しては、ことあるごとに暴力的な支配と収奪を繰り返してきた。ことに、宗教改革の16世紀と市民革命が相次いだ17世紀には、ジェノサイドともいえる暴力と弾圧を展開した。もとより、アングリカン教会(イングランド風プロテスタント)をカトリック(アイアランド)との敵対という宗教イデオロギーでの対抗という要素もあった。
アイアランドのカトリック派民衆にとっては、暴力的な反乱と報復を辞さないというくらいの怨恨・怨念が蓄積するのも、仕方がないかとも思われる。
ブリテン=アイアランド関係の歴史をざっと跡づけてみよう。
アイアランド島を含むブリテン諸島は、対岸のヨーロッパ大陸北西部の諸地方(イベリア北部、フランス西部・北部、ネーデルラント、ユーラン、ドイツ北西部、ノルウェイ)と古くから密接に結びついていた。北海沿岸文化圏ともいうべきか。
1171年に、ノルマンディ=アンジュウ家門のイングランド王ヘンリー(アンリ)2世がアイアランド征服を始めた頃には、この島はキリスト教ローマ教会の文化と権威を受け入れていたが、そこでは、小さな部族諸侯国がひしめき合っていた。
キリスト教の教義や聖列儀式などの行事も、古くからの部族社会の慣習をかなり取り込んだものだった。過去にはヴァイキングの侵略と植民を受けたが、土着の文化や慣習の生命力は根強くて、ヴァイキング移民たちの社会もいつしか土着の部族社会の伝統にすっかり取り込まれていた。
さて、12世紀後半、アイアランドに上陸したイングランド王直属のバロン(王の直接授封家臣の貴族)たちの軍は、重装騎士の突撃と歩兵による長弓とを組み合わせて、アイアランドの部族勢力を攻撃した。長弓は、ブリテン本島でウェイルズ侵略のさいに敵から習得した兵器だった。
イングランド王軍が、互いに独立・分立していた個別部族の抵抗を緒戦で突破して征服拠点となる土地の支配を打ち立てると、イングランドでは辺境に追いやられていたノルマン系貴族や、土地を追い立てられたウェイルズ人たちが移住してきた。イングランド貴族たちは所領支配を樹立したが、やがて土着の慣習や文化に同化し、イングランド王の権威から独立していった。
征服戦争に勝利すると、イングランド王はその土地の支配を宣言し、自分の権威に従う貴族たちに土地を所領として授封したが、直属の軍とバロンをブリテンにただちに引き上げてしまった。「封建法」による征服と支配は、そんなものなのだ。「領土主権を有する国家」という観念や制度が成立するのは、まだ5世紀のちのことだった。
それにしても、ヘンリーは、教皇からアイアランドでの宗主権を認められた。つまりは、アイアランドのローマ教会の保護を義務付けられた。
こうして常駐の直属軍を置かないから、1世代が代わる頃には、現地の各所領の支配者は、イングランド王の権威なんかはすっかり忘れてしまう。この時代には、王の側あるいは領主の側に世代交代があるたびに「臣従誓約」の儀式をおこなわないと、臣従契約は消えてしまうのだ。
とはいえ、イングランド貴族たちに土地支配権を奪われた者たちは、その侵略と征服を呪った。ただし、この島では、土地の支配権は部族という身分団体――階級構造をともなう共同体――に属するものとされ、その実効的管理・統制を部族長(小侯国の王)が担うものとされていた。土地の私的所有権という観念はなかった。