この傾向は、ピュアリタン革命やその後の名誉革命によって、さらに加速され、残虐さの度合いを強めていくことになった。17世紀イングランドの諸革命をつうじて、アイアランドに対する暴虐な収奪と植民地化が推し進められ、アイアランドの構造的な周縁化・辺境化が完成していく。
歴史教科書では「民主主義への進歩」と位置づけられて語られる過程は、じつはアイアランドの植民地的従属の深化と収奪の深刻化の課程をともなっていたのだ。
ピュアリタン革命の最中の1649年、オリヴァー・クロムウェルは自ら共和派軍を率いてアイアランドに攻め入った。軍事的征服をつうじて、アルスター州、レンスター州、マンスター州――海峡を挟んでブリテン島に面する側の3州でアイアランドの大部分――では土地の大部分がイングランド地主の手に渡った。
イングランド王権は、不服従的ないし反抗的なアイアランド人農民を追い払って開拓・耕作のためにイングランド人農民やスコットランド人農民の移住を促進して植民を進めた。
だが、開発・営農のための資金に乏しい移住農民層のほとんどは、資金を得るために土地を抵当にしたことから、やがて経営難で土地保有権を手放さざるをえなくなった。移住農民が苦労して開墾し耕作した土地のほとんどは、ほどなくしてイングランド軍の上級士官――貴族の次男以下の者たち――やイングランド地主領主層の手に移った。移住農民たちは、小作農になるか零細な農園経営を続けるしかなかった。
悲惨なのは、イングランドの征服地に残った平穏で従順なアイアランド農民たちだった。彼らは、それまで耕作してきた農地の保有権を強制的に奪われ――土地保有権を守るためには高い金を出して買い取らなければならかったが、それはほとんど不可能――、重い地代にあえぐ小作人になるか、農村を追い立てられて賃金労働者になるかしかなかった。
このように戦乱と迫害によって生存環境を破壊され抑圧されたために、アイアランド人の人は、1641年からの10年間で、150万から70万へと激減した。戦死や窮乏死も多かったが、故郷で生き延びる条件を失ったために、アメリカ大陸のプランテイションの労働者として船で大西洋を渡った人口も数十万にのぼった。
過酷な海上の旅の途中で病死・衰弱死したり、渡航費=借金のためにアメリカで債務奴隷化した者――無給の年季奉公で債務を支払う――が大半だった。人格的隷属こそなかったが、経済的隷属という意味では、アフリカの黒人奴隷とよく似た――いく分ましな――運命をたどることになった。
こうして、17世紀後半以降、軍事的・政治的環境と土地所有制度の乱暴な組換えののち、アイアランドはイングランドの経済的欲望にいよいよ全面的に従属した再生産構造がもたらされていった。要するに、安価な食糧なしは原料の供給地となった。そして、安価な労働力の供給地となった。
はじめのうちは、酪農・牧牛業が移植されて食肉と牛乳製品、畜牛をイングランドに輸出していたが、それがイングランド本国での畜産物・飼料用の産物・地代の価格を押し下げる要因と見なされるや、それらの輸出を禁圧されてしまった。低廉な畜産物=食糧の生産地としての地位すら破壊されたのだ。
仕方なく、牧草地を牧羊に転用して、イングランドに羊毛(毛織物原料用)を輸出するようになった。ところが、当時イングランド王権は貿易商人団体と結びついて、域内で輸出用の毛織物産業を保護育成していた。そこで、イングランドの羊毛産業の保護のために、イングランド向け以外で原毛を輸出することを禁じられてしまった。そして、アイアランド島内で生産された羊毛を原料として、地場産業としての毛織物産業(織布)が生まれると、根付く前に禁圧・壊滅させられてしまった。
さらに、イングランで始まった初期工業化のために、全島の植生・生態系が暴力的に破壊されてしまった。イングランドの製鉄業(燃料)や造船業(用材)、土木材料として森林が伐採され尽くしてしまい、17世紀はじめには全島面積の13%を占めていた森林は完全に消滅してしまった。
ブリテンのアイアランド支配と紛争の歴史の続きを知りたい⇒『マイケル・コリンズ』
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