第4章 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折
この章の目次
フェルナンドとイサベルが打ち立てようとした王権による統治レジームは、カスティーリャでは半分実現した。半分というのは、王権国家としてのまとまりを何とか形成したが、聖俗の上級貴族の所領支配には介入することはなく、それゆえ彼らの権力を抑制・吸収することはなかったからだ。
そのカスティーリャ王国は、アラゴン連合王国との同君連合によってエスパーニャ王国を形成した。だが、エスパーニャは統一的な政治体としての国家をなしているのではなかった。まず、同君連合によってアラゴン連合王国を構成するアラゴン、カタルーニャ、バレンシーアは法制、軍制、税制がそれぞれ別個で、いわば自立的な政治体だった。同じ時期のフランスと比類すると、それらは公領、伯領にあたる地方圏だが、はるかに自立性が大きかった。それらは独自の通貨を発行し、別個の関税圏をなしていた。
それらが、さらにカスティーリャと同君連合を形成したのだから、エスパーニャは自立的な多数の政治体がモザイク模様をなした中世的「帝国」だった。そして、ローマ教会の異端審問裁判所だけが、イベリア全土にわたるイデオロギー装置・行政装置として機能していた。
たしかにエスパーニャは広大すぎて、当時の交通通信技術や軍事能力では統合するのが困難だった。だが、アラゴン連合王国の人口100万に対してカスティーリャ王国は500万から600万に達していて、人口でも経済力でも大きな差があったから、もしカスティーリャでの集権化がさらに進んでいれば、エスパーニャ国家としてアラゴン諸地方の統合は可能であっただろう。
だが、カスティーリャ域内でさえ統合の限界を超えようとしなかった王権は、ましてやアラゴンやカタルーニャなどの諸地方を政治的・軍事的に統合するプログラムを掲げることはなかった。王権に対する反乱を恐れて、諸王国とのあいだの平和を優先した。時代が違えば、分権的で民主的な政権だったともいえようが。
そして、王権自体も諸王国の支配階級はともに「王の統治」については中世的観念に拘束されていた。すなわち、各王国(公領、伯領など)は自立的な政治体として独立の法=特権をもち、上級の王権や君侯への臣従はその特権の承認のうえに成り立つのであって、王権がこの特権を侵害すれば反乱を起こし、別の君侯に臣従の向け先を変えることができるという観念だ。そこには、永続的な統合によって中央政府をもつ統一的な政治体を形成するという思想はない。王権・君侯による領域国家の形成は、こうした共同主観をしだいに掘り崩していく過程であったが、エスパーニャにはその過程が進行する条件がなかったということだ。
フェルナンドは王位継承にさいして、半ば自立的な王国・伯領をなしていたアラゴン、カタルーニャ、バレンシーアのそれぞれの圏域で総評議会を開催し、それぞれの法と慣習を尊重することを宣誓した。これらの王国では伝統的な統治協約(平和)思想
pactismo の影響力が強く、総評議会が立法の主導権を握り、財政面ではその常設代表院 Diputacion や総督府(徴税を主務とする行財政装置)
Generalitat de Catalunya が課税・徴税や公債の発行を管理していた。
カスティーリャにいることが多くなったフェルナンドは、アラゴン王としてアラゴン各地方に王権の代表者として副王や伯代理を派遣し権限強化をはかったが、カスティーリャ王権の中央装置に結びついた行財政機構をつくりだすことはなかった。副王や伯代理は固有の権力装置をもっていなかったので、王の企図を実行しようとすればそれぞれの圏域の統治装置をつうじておこなうしかなかった。それゆえまた、こうした統治装置の中核をなす総評議会と王とはしばしばと対立し、課税政策や軍事政策などでの統合・集権化は進まなかった。
アラゴン、カタルーニャ、バレンシーアの総評議会は、それぞれに特権をもつ諸身分の政治的結集装置であって、強力な権限をもって各域内の統治や司法について常時監視していた。これらはそれぞれに決められた期間をおいて開催され、議決は全会一致の原則をとっていた。1494年にはカスティーリャの宮廷にアラゴン顧問会議
Consejo de Aragon が創設されたが、それに直属するアラゴンの地方機関はつくられなかったから、王権の支配はアラゴンに浸透しなかった。
アラゴンでは、貴族=領主層は所領経営で権力を振りかざして農民を抑圧し収奪していた。ここには、領主層の権力を掘り崩して集権化を進めて農民への支配と搾取を抑制する王権は存在しなかった。
アラゴンの領主層は、飢饉と疫病がもたらした農民人口の減少による経営の危機に対して、農民を土地に縛りつけ負担を加重する方策、すなわち保有地の放棄
remença に対する課税(レメンサ金)や地代の増額などで対応した。その結果、15世紀には農民反乱が続いた。所領からの移動を求める農民(レメンサ農民)の反乱は、1486年にカスティーリャ王でもあるアラゴン王が農民に移動の自由を認めるグアダルーペ裁定を出すことで終結した。だが、この裁定の結果、王権はアラゴンの評議会で領主貴族と衝突することになった。
カタルーニャ領の都市での紛争も続いた。ことにバルセローナでは、門閥支配層、遠距離貿易商人、香辛料卸売り商人からなる党派ビガ
Viga と製品輸出商人、毛織物手工業者からなる党派ブスカ Busca が市政ポストや経済政策をめぐって闘争した。ビガは総評議会や総督府に結集して、都市支配層と対立してブスカに好意的な王権と対立した。
さて、アラゴン王国との合同にともなってその海外属領・勢力圏も併合したエスパーニャは、地中海での影響力をめぐって15世紀末からフランス王権と角逐することになった。グラナーダの征圧が完了すると、王権は域内では過剰になった兵力をイベリアの外部に振り向けた。ヨーロッパ各地への勢力拡張をめぐって有力な諸王権が対抗するようになっていたのだ。
1494からイタリアに攻め込んだフランス王権は、翌95年にナーポリを制圧した(イタリア戦争)。これに対して、フェルナンドは教皇庁、ミラーノ公国、ヴェネツィア、神聖ローマ帝国と協定を結んでフランス勢力を包囲し、シャルル8世にナーポリ王位をアラゴンへ返還させた。やがて16世紀初頭には、ふたたびナーポリの王位と領有をめぐるフランス王権との争いで勝利し、ナーポリ王国のアラゴン王国への帰属が確定した。
エスパーニャの軍隊は、火縄銃と槍方陣を組み合わせた歩兵を中心とする編成で、戦場では巧みに築城構築能力をもつ「常勝のテルシオ(歩兵連隊) tercios 」と恐れられた。とはいえ、その後もイタリアをめぐってフランス王権とカスティーリャ王権との闘争は果てることがなかった。
イタリアに侵攻しようとするフランス王権の脅威に直面するたびに、教皇庁はエスパーニャ王国に支援を要請した。フェルナンドはフランス王権を包囲するため、1509年に、王女カタリーナをイングランド王ヘンリー8世と結婚させた。これに対して、フランス王はナバーラ王国と同盟した。これに対して、フェルナンドはナバーラを侵攻・征圧してカスティーリャに併合してしまった。
北イタリアは膨大な富の集積地であって、その支配はヨーロッパにおけるエスパーニャの栄光や権威を高めるものだったが、断続する紛争に巻き込まれて戦費や兵員補充で大きな負担を強いられた。そのうえ、すでに見たように、ナ―ポリとシチリアでは現地王室の権威が衰退し切っていて、財政収入も乏しかった。
世界経済における資本と国家、そして都市
第1篇
ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市
◆全体目次 章と節◆
補章-1
ヨーロッパの農村、都市と生態系
――中世中期から晩期
補章-2
ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
――中世から近代
第3章
都市と国家のはざまで
――ネーデルラント諸都市と国家形成
第3節
ネーデルラントの商業資本と国家
――経済的・政治的凝集とヘゲモニー
第5章
イングランド国民国家の形成
第6章
フランスの王権と国家形成
第7章
スウェーデンの奇妙な王権国家の形成
第8章
中間総括と展望