第2節 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

この節の目次

1 都市の領域支配圏域の形成

ⅰ 領域支配の成立過程

ⅱ コムーネ運動の前史

ⅲ 都市コムーネの権力獲得

ⅳ コンタード支配の確立

ⅴ フィレンツェの統治構造

2 北イタリアの都市国家群の展開

ヴェネツィア

ジェーノヴァ

ミラーノ

フィレンツェ

3 イタリア都市国家群の文化

異端運動と教会

大学設立と専門家・知識人

4 14世紀の危機とイタリアの地政学的環境

ⅰ 農業危機と疫病、人口危機

ⅱ ローマ教会と君侯権力

ⅲ 断続する戦乱と権力集中

ⅳ イタリア都市国家群の構造的弱点

5 地中海貿易圏の構造的変動

ⅰ 地中海東部での権益縮小

ⅱ 商業資本と社会的分業

ⅲ リスクとコストの増大

ⅳ 北西ヨーロッパへの重心の移動

6 地中海貿易の構造転換

ⅰ 貿易品目の変遷

ⅱ オスマントゥルコの勢力伸長

ⅲ ヨーロッパ世界市場の出現

ⅳ 金融事情と投資市場の変動

7 「イタリア諸国家体系」の変貌

ヴェネツィア

ジェーノヴァ

フィレンツェ

ミラーノ公国

ナーポリ=シチリア王国

ローマ教皇領

8 ヨーロッパ諸国家体系とイタリア

8 ヨーロッパ諸国家体系とイタリア

  15世紀末から、イタリアはヨーロッパの有力諸王権による勢力争いの舞台となった。イタリア都市国家群の対抗や同盟関係は、相争うフランスやエスパーニャ、さらにオーストリアの諸王権の磁場に絡め捕らわれることになった。

  1494年のフランス王のイタリア侵攻からイタリア戦争が始まる――戦乱は断続してようやく終結するのは1559年のカトー=カンブレジ講和条約。
  この歴史のタイミングは絶妙だ。
  というのも、イベリアでは1492年に最後のイスラム公領グラナーダが陥落してエスパーニャの統合がなり、その年、ドン・クリストーヴァル・コロン(コロンブス)が西インドへの航路探検に出発した。大航海時代の曙光がさし込み始めたわけだ。
  その10年前には、フランス東部の――フランス王権よりも強大だった君侯――ブルゴーニュ公家が断絶し、ヴァロワ=オルレアン王朝によるフランス統合への動きが加速する。さらにその7年前には、イングランドでテュ―ダ―王朝が確立された。
  16世紀になるとヨーロッパ各地で宗派紛争と教会改革が始まる。ルターやツヴィングリがローマ教会への異議申し立てを表明し、テュ―ダ―王権は1534年に強引な教会改革を開始する。41年にはカルヴァンが急進的な宗派闘争を企てる。やがてドイツでは農民戦争が繰り広げられることになる。
  15世紀末から16世紀半ばにかけてヨーロッパの地政学的構造が大転換しようとしていたのだ。

  イタリア諸都市には豊かに蓄えられた富(文化・芸術)や先端技術があって、この地を支配すれば、どこよりも多くの戦利品や賦課金――そして華麗な先進地を支配するという権威や威信――を獲得することができたからだ。イタリアの支配は、勢力を競いながら国家形成を進めるヨーロッパの有力諸王権にとって、競争相手にまさる資源や技術、権威を手に入れることを意味していたのだ〔cf. Mcneill〕
  そして、この争奪戦のなかでは諸国家体系の論理とダイナミズムがはたらいていた。諸都市や諸王権のあいだの同盟相手や対抗軸はめまぐるしく変化し、裏切りや二枚舌の駆け引きは常套手段で、主権と権益のためにはいかなる手段・政策も許されるという論理と勢力平衡の原理、つまり interstate -system の原理が貫徹していた。

  1494年にはフランス王シャルル8世の軍がイタリアに侵入し、大した抵抗も受けずに軍隊行進のような勢いでナーポリまで遠征した。戦争というよりは、弱小な諸都市や領主たちがフランス王軍の威容を前に、自ら進み出て――あくまで表向きの形式として――臣従を誓うというありさまだった。新たな力関係のなかで少しでも有利な地位を確保するための駆け引きだった。
  ヴェネツィアは当初、中立を保とうとした。だが、地政学的なパワーバランスの点から見ると、フランス王権はあまりに強大すぎた。ところが参戦してみると、勢力平衡の錘は揺れ動き、ある方向に揺れてはまた反対向きに揺れることになる。
  翌年、ヴェネツィアは対フランス同盟に参加して、兵力の大部分を提供し、フランス王軍を打ち破った。このとき、ヴェネツィア軍はフランス王軍を追撃せずに、内陸領土の拡大に転進し、ブリンディジ、トラーニ、オトラントを攻略した。そして、フィレンツェに対して蜂起したピーサの独立を支援した。
  そこには、以前のように海洋上の拠点に依拠する貿易ネットワークの拡張に向かうよりも、内陸での支配地を拡大しようとするダイナミズムがはるかに強くはたらいていた。
  1498年にはフランス王ルイ12世がミラーノに進軍し、イタリアでの勢力分割についてヴェネツィアとブロワ条約を結んだ。フンランス王はミラーノ公国を支配し、ヴェネツィアはクレモーナ攻略に成功し、さらにロマーニャ地方のファエンツァ、リミーニ、ファーノを征服することになった。

  ところが1508年には、神聖ローマ帝国皇帝位を獲得したオーストリア王マクシミリアンが、ローマでの皇帝戴冠のためヴェネツィア領を通過しようとした。ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝は、イタリアにも権力を拡張しようとねらっていたのだ。ヴェネツィアはこれを拒否して衝突し、ゴリツィアとトリエステを占領してオーストリア王の支配から奪い取った。こうして、ヴェネツィアの版図は最大になった〔cf. Bec〕
  だが、ヴェネツィアはロマーニャの支配をめぐって教皇と対立することになった。ヴェネツィアの影響力のロマーニャへの拡大は、ロマーニャに多くの領地を保有する教皇庁の権力への大きな脅威だったのだ。教皇はヴェネツィアの教会税徴収権と司教職の任命権を奪おうとした。
  伸長したヴェネツィアの権力を削ぎ取ろうという当面の目的では、オーストリア王(皇帝)ハプスブルク家との家門的同盟を結んだエスパーニャ王権、教皇、フランス王権は利害が一致した。これらの君侯権力は、それぞれにイタリアでの勢力拡張をねらっていたので、当面の障害を取り除こうというわけだった。
  この同盟には、ヴェネツィアの圧迫を受けているイタリアの都市国家も加わった。
  こうしてその年、広大すぎるヴェネツィア領土・属領の分割のために、オーストリア王権、エスパーニャ王権、フランス王権、フィレンツェ、フェラーラがカンブレー同盟を取り結んで、ヴェネツィアの勢力下に置かれた各地に攻め込んだ。ヴェネツィアは追いつめられ、その領土を切り縮められたうえに、教皇の要求にも屈した〔cf. Bec〕

  この地域でのヴェネツィアの最優位が崩れると、平衡の錘はふたたび別の方向に振れ始める。強大化した2つの王権、オーストリア王権とフランス王権を抑える動きが起きたのだ。
  1511年にはフランス王権のミラーノ公国支配に対抗しながら、他方でオーストリア王権(皇帝)を牽制するために、、ヴェネツィア、エスパーニャ、イングランドは、教皇の提唱する神聖同盟を結成した。この同盟の包囲と圧力のなかで翌年、フランス王はミラーノ公国を失った。
  ところがまもなく、イタリアでの勢力挽回をねらうフランス王フランソワとヴェネツィアは同盟することになって、1513年にはフランソワはミラーノ公国を奪回した。ヴェネツィアは1517年までに本領といくつかの属領を回復した。それは、掠奪を好む域外の軍隊よりも、ヴェネツィアの統治を望む諸都市が協力や支援を惜しまなかったからだったという〔cf. Mcneill〕
  とはいえ、ヴェネツィアの勢力回復は限られた範囲にとどまり、ヴェネツィアのロマーニャ属領への支配権が復活することはなかった。

  ところで、その頃、ヨーロッパ全域の地政学的力関係が転換しようとしていた。マクシミリアンの孫、カールが神聖ローマ皇帝位とエスパーニャの支配権を継承したのだ。ハプスブルク家の手のなかにエスパーニャ、オーストリア、ネーデルラント、ブルゴーニュ、ベーメン(ボヘミア)、ナーポリ、シチリア、地中海諸島の統治権がおさまった。
  1519年から57年まで(カール5世の在位期間)、ハプスブルク王朝の支配地はフランスを取り囲んでいた。それゆえまた、ハプスブルク王朝はフランス王権といたるところで交戦していた。それが、ヨーロッパ諸国家体系での最も主要な対抗軸だった。
  こうした軍事的・政治的状況のなかで、ヴェネツィアは1529年までフランス王権と同盟しながら、ハプスブルク王朝と戦った。だが、イタリアでのフランス王軍は補給経路の確保もままならず弱体だった。また、形の上ではヴェネツィアと同盟するイタリア諸都市はハプスブルク家の軍隊にはまったく手出しができずにいたから、事実上、ヴェネツィアが単独で戦線を維持していたようなものだった。
  1527年には皇帝軍がローマを征圧、略奪した。29年にはヴェネツィアもついに力尽き、皇帝と和睦した。つまり、ハプスブルク家のカール5世にイタリアでの覇権を認めた。おりしも、スフォルツァ家が断絶したミラーノ公国はフランス王権の庇護を脱して、皇帝の支配下に置かれるようになった。その後、ヴェネツィアは幾度か抵抗を試みるが、見るべき成果もなく、ハプスブルク王朝の優位は崩れなかった。
  だが、フランス王権とハプスブルク王朝は両方とも膨大な軍事費の重みに堪えきれず王室財政が押しつぶされ、ともに継戦能力を失い、1559年にはカトー=カンブレジ条約で和睦した。


  イタリア諸都市はヨーロッパ世界市場の黎明期からいち早く富と権力を蓄積して、都市国家をつくり上げた。そして、この地における地政学的環境は、強大な王権国家の出現を阻み続けた。こうして、有力な諸都市国家は長らく政治的・軍事的自立性を保ち続けた。
  ところが、近隣――フランス、エスパーニャ、オーストリア――に地域に強大な王権諸国家が形成され、これまでとは桁違いのスケイルで相互に権力闘争を展開するようになると、その強力な磁場のなかで翻弄されるようになった。いずれにせよ、イタリアの小規模な都市国家群は、強大な王権諸国家の権力対抗なかで争奪や駆け引き、取引きの材料・道具になってしまった。

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世界経済における資本と国家、そして都市

第1篇
 ヨーロッパ諸国家体系の形成と世界都市

◆全体目次 章と節◆

序章
 世界経済のなかの資本と国家という視点

第1章
 ヨーロッパ世界経済と諸国家体系の出現

補章 ― 1
 ヨーロッパの農村、都市と生態系
 ――中世中期から晩期

補章 ― 2
 ヨーロッパ史における戦争と軍事組織
 ――中世から近代

第2章
 商業資本=都市の成長と支配秩序

第1節
 地中海貿易圏でのヴェネツィアの興隆

第2節
 地中海世界貿易とイタリア都市国家群

第3節
 西ヨーロッパの都市形成と領主制

第4節
 バルト海貿易とハンザ都市同盟

第5節
 商業経営の洗練と商人の都市支配

第6節
 ドイツの政治的分裂と諸都市

第7節
 世界貿易、世界都市と政治秩序の変動

補章 ― 3
 ヨーロッパの地政学的構造
 ――中世から近代初頭

補章 ― 4
 ヨーロッパ諸国民国家の形成史への視座

第3章
 都市と国家のはざまで
 ――ネーデルラント諸都市と国家形成

第1節
 ブリュージュの勃興と戦乱

第2節
 アントウェルペンの繁栄と諸王権の対抗

第3節
 ネーデルラントの商業資本と国家
 ――経済的・政治的凝集とヘゲモニー

第4章
 イベリアの諸王朝と国家形成の挫折

第5章
 イングランド国民国家の形成

第6章
 フランスの王権と国家形成

第7章
 スウェーデンの奇妙な王権国家の形成

第8章
 中間総括と展望