占領軍によってもたらされたイラクの国家秩序と平和の完全な崩壊は、しかし、ブッシュ政権とパウンドストーンが構想していた戦後のイラク「新レジーム」がほとんど無意味なものになることを意味した。イラクの実情を無視して侵略し、政権覆滅をはかった結果だった。そのことは、現在も続いているイラクの悲惨な状況を見れば明らかだ。
さて、ミラーがどうにか生還した翌日、「自由の大会」が開催された。スンニ派、シーア派、クルド族という主要なグループのほかにも、いくつもの利益代表が参加していた。
ところが、会議が開催されるや、議場は悲惨な紛糾と混乱の場となった。
戦争後の政権・レジームについて何らの共通認識や方針をつくろうとすることもなく、それぞれが勝手に自分たちの利害と権益を主張する。
これまでフセイン政権の強圧で利害対立を封じ込められてきた諸階級、諸民族、諸宗派などは、もはやイラクの国民国家としての統一性とかイラクの国際的地位への配慮をすっかり後回しにして自己主張し始めた。主張する自分たちの利益をどのような政権・レジームをつうじて実現するのかという手立てや手順には、まったく思いがいたらなかった。
フセイン政権という重しで蓋をされていた「パンドーラの箱」が空いてしまった。独裁レジームのもとで呻吟していたため、政治的民主主義についてはまったく経験がない社会集団の思考・行動スタイルは得てしてそんなものかもしれない。
もとよりそもそも、この代表たるや、アメリカが――イラク民衆の政治代表を選ぶこともなく、ただひたすら「自由の大会」をでっちあげるために――自分の都合に合わせてかき集めて雁首を揃えただけのメンバーで、彼らが代表する利益が本当に彼らが帰属するグループの利害を反映したものかさえ、定かではない。
民主主義という制度をつうじて国内の利害対立を平和的に調整し妥協の枠組みを打ち立てるという経験を、イラク人はしてこなかった。一般民衆は、政治的言説や意思決定から排除されてきたのだ。だから、妥協の方法を知る余地もない。
おそらく、彼らは膨大な流血や苦痛、長い時間と引き換えに、そうした秩序の再建の道を学びとるしかないだろう。
もとより、こうしたイラクの実情を知ろうとせずに虚偽の開戦・侵略理由を掲げてきたブッシュ政権と占領軍軍政部に、事態の打開の方策などあるはずもない。虚偽の開戦理由を掲げるということは、すなわち敵と戦地の状況を知ることもなく無謀な戦争に突入するということだったのだから。
おそらくパウンドストーンは、何の準備もなく「パンドーラの箱」を開けてしまったことに愕然としただろう。
だが次の瞬間には、アメリカ共和党右派政権のなかでの地位の上昇・出世にとって、この事態が邪魔にならないようにするための口実づくりと裏工作に意識が行ってしまったようだ。
自分たちが虚構の理由をつけてイラクという国民国家を軍事的=暴力的に破壊し去ったあとに、住民のどれほどの悲劇や苦悩が待ち構えているか、そのことには露ほども気が回らないのだ。しかし、この混乱と無秩序は、アメリカ政府と軍を長期の泥沼に引きずり込むことになる。