1997年5月、ブリテン連合王国では、総選挙に圧勝した労働党の党首トニー・ブレアが新しい女王の内閣を組織することになった。総選挙後、女王エリザベスはバッキンガム王宮でブレアと面会して組閣を要請していた。そのとき、王太子チャールズの前妻ダイアナとドディ・アルファイドとの交際をめぐる情報が入った。
アルファイドはアラブ系イスラム教徒の富豪だった。
それから3か月後の真夜中、フランス大使館からパリでの交通事故でダイアナが重体に陥ったという報告を受けた。その日のうちにダイアナは死亡した。
すでに離婚によって王室との関係を断ったダイアナの死にさいして、もはやイングランド王室がとやかくコメントを表明したり葬儀に参列したりする筋合いはなかった。それゆえ、一般大衆の意見がどうあろうと、女王は無関心の態度を守り続けるのが王室の節度だと判断し、そういう冷静な態度を保ち続けた。
ところが一般民衆の世論とメディアは、女王と態度に対して厳しい批判や避難を向けることになった。これまでは王室を中心とする支配階級トップエリートは、メディアに対する巧みな情報発信や新王室派の知識人やセレブリティを動員して、王室に関して好意的な大衆意識状況がつくり出してきたが、今回は多くの民衆が王室に強い反発を抱いていた。
マスデモクラシーのもとでは、メディアは王室や政府に従属する装置ではない。民衆への影響力を保つため、ときにはスーパーエリートに逆らっても一般民衆の気分を世論や民意として報道しなけれなならない。
というのも、王室の旧弊な慣習や行動様式が、王太子チャールズとダイアナとの不幸な婚姻と離婚をもたらした、それまでの経緯について、民衆は深い疑念や反発を感じていたからでもあった。
王室に対する厳しい世論のなかで王室・王族メンバーの懸念を知ったブレア首相は、女王に態度の変更を求めた。そして、国家の政治的装置としての女王は統治秩序の安定のために――女王自身の心情とは別に――しかるべき態度や言動を取らなければならない。エリザベスは苦渋の決断をした。
ダイアナの葬儀から2か月後、ブレアはバッキンガムに女王を訪ねた。
議会の新たな会期の開始にさいして、議会の招集など「国事行為」について女王と打ち合わせをするためだった。そこで、ともに葬儀にいたる「嵐のような1週間」を振り返った。
ブレアは国家装置としての王室の危機を回避するために、女王に「意に沿わない行動」を求めたことを詫びた。それに対して女王は、メディアが表現する「民意」「世論」なるものの面倒さに直面した苦衷を打ち明けた。