クイーン 目次
王室の威信と女王の孤独
見どころ
あらすじ
王室の存在意義はあるのか?
王室制度の虚構性
ブリテンのエリートの意識
ダイアナの孤立
女王の肖像画
ダイアナの死
ブレアの得点
女王 対 民衆
死せるダイアナ、生けるエリートを動かす
追い詰められる王室
    *王旗と国旗
「民意」と王室
狭まる包囲網
孤立する女王
女王の帰還
孤独の周りに漂うもの
ブレアと女王との再会
マスデモクラシーにおける王権
  マスデモクラシーとは…
  民衆の期待または要望
  ダイアナ公葬は浪費?
  民主主義と王制・身分制
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◆マスデモクラシーにおける王権◆

  さて映画の物語をたどったあとに、ここで、この作品が提起している問題を考えてみよう。問題とは、「現代のマスデモクラシーのもとで王権や王室の存在」というテーマとなる。
  まず mass-democracy とはどういうものか。
  デモクラシーとは、別の記事で触れたが、ギリシア語源で、民衆の力(による統治)という意味だ。そこに大衆マス――巨大な人口の塊・集合――という形容がついている。「マス」と「デモ」とはほぼ同じような意味だから、一種の tautology :同義反復(による形容矛盾)ともいえる。
  とはいえ、マス=大衆という場合、そこには一種の「エリートの視点から見た貶視(見下し)」が含まれている。内的紐帯を持たない、連帯性のない砂のような大衆、マスメディアによって操作される受動的な下層民衆というような。

◆マスデモクラシーとは何か◆

  ところで、デモクラシー=民主政とは、権力の制度的な組織形態の1つである。ヒエラルヒッシュな階層序列構造、階級格差が必然的に随伴することになる人類の統治システムにおいて、外見上、民衆の多数意見にしたがって政権を組織し、政策を形成・運用するように見える制度、それが民主主義である。
  つまりは、主権=統治権の源泉が「民衆の多数派」にあるというような偽装がまことしやかにまかり通り、この論理がそれなりに説得的な政治システムのことである。
  ありていに言えば、少数のエリートのなかから選ばれ組織される政権が、結局のところごく少数者の利益や権益を維持貫徹するために、政策や統治の根拠を、民衆の多数意見に源泉があるかのように振る舞うシステムである。
  実際の民主主義の歴史的経験に即して考えれば、そんなものであろう。
  もちろん、美しい幻想を飾り立てる理論や理屈は山のように用意されているが、ホンネを語れば、そういうことだ。


  マスデモクラシー理論は、選挙権など政治参加をめぐる市民権が富裕諸階級や中産市民上層――生活にゆとりがあって広く深く思考する教養市民階層――に限られていた状況から、少なくとも成人男性全体――すなわち大衆でその多くが低賃金労働者層――に市民権が拡大された状況に合わせて提起された政治理論だ。
  自発的・能動的に思考し行動する教養ある上層市民に代わって、容易にマスメディアをつうじて操作され誘導されがちな大衆の政治的選択は、得てして煽情的でデマゴギックになりがちだというのだ。その極端な例が、ヒトラーが指導したナチスの政治的宣伝や煽動に乗せられて恐ろしい独裁レジームを生み出した、1930年代のドイツの政治状況とされる。
  マルクシズムが革命や政治変革の担い手と評価する労働者階級=大衆は、マスデモクラシ−理論では、生活に余裕がないがゆえに受動的で、砂粒のように個別分断されて容易にメディアの煽動に乗りやすい存在と、いささか貶価されている。
  そして、このように分子化されメディアの捜査に誘導されやすい状況に人口の多数が置かれることを「マス化」と呼ぶ。
  マルクシズムが低賃金による生活の困窮やゆとりのない状態が資本主義的秩序やエリートの優越に対する批判精神の根拠となると見るのに対して、マスデモクラシー理論は、むしろ生活状態への不満の吐け口をメディアが提供する刹那的な娯楽への陶酔に求めがちだと突き放す。

  とはいえ、人口の多数派を占める労働者階級や下層中産市民は歴史から学び、選挙権の行使によって議会での左翼や急進派や改革派の影響力を拡大しようとするため、政治エリートは所得の再分配や福祉政策によって彼らの同意を得て統治の正当性を調達しようとする、ということになる。

  政治や統治の正統化の根拠を、民衆の多数派意見、多数派世論に求める巧妙な仕組みは世の中のそこかしこにビルトインされている。マスメディアもまた、基本的に、そのような論理=文脈で機能している。
  薄っぺらな「大衆迎合」の飾り立てや甘言、美辞麗句、常套句がメディアのショウウィンドウに並べられ、総体として巧みに機能する正統化装置がうごめいている。
  誰かがそういう欺瞞を仕組むのか、あるいは多数の利害や思惑が対抗し合い絡み合う複合的な過程の結果、世の中の最有力のエリートの利害が最優位に立つようになるのか。たぶん、両方なのだろう。要するに、私自身を含む民衆は、無力で愚かなものなのだろう。

  とはいいながら、そういう欺瞞装置が機能しているということは、民衆の政治意識・社会意識をレジームの枠内に誘導できなくなった場合の危険をそれなりに怖れているいるということでもある。民衆の意識や行動はレジームを脅かす場合もあるのだ。そうなると、政治的支配者や指導者は、表向き一般市民、一般民衆の意見や世論を怖れ、説得や懐柔を試みなければならない状況の社会なのだ。
  だから、どれほど欺瞞的であはあっても、制度としての民主主義はじつにありがたいものなのだ。
  1党独裁の現代中国のレジームや言論・表現の自由、請願の権利――請願の自由はあっても報われる保証はどこにもないが――などが認められないレジームと比べると、ありがたみが痛いほど理解できる。

  さて、それでは、社会心理あるいは「民衆多数派の意見」、世論は、レジームや国家装置にどれほどの影響力を持っているのか。どのような世論が、どのような状況であれば統治装置の仕組みや動き方に変更や変革を迫ることができるのか。
  この作品は、ある意味では「民衆の世論」なるものが国家装置としての王室の行動スタイルの一部分を変えた経過を描く物語だ。

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