マスデモクラシー社会で王室制度は、そもそもする意味はあるのだろうか?
イングランド王室はブリテン王国の誇るべき素晴らしい伝統であって、存在するのは当然。王または女王と王室は、複数の民族や政治体からなるブリテン連合王国の国民的統合の象徴だ。
そういうイングランド王室に好意的なブリテン市民の評価や意識状況を根底から見直し、王室の存在に意味があるのか、王制は廃止すべきかという批判や疑問が一気に噴き出てきたのが、ダイアナの事故死以来の数か月の状況だった。
国家の象徴としての王室の存在の当否が問われるということは、政治イデオロギー状況としては、統治秩序が大きく揺らかもしれない危機的な事態というべきだろう。
それを静かに問いかけるのがこの映画作品だ。
ダイアナはチャールズとの婚約発表と婚約以来、マスメディアの大きな注目を浴びていた。そして婚儀や新婚家庭生活、出産、育児などをめぐる王室のできごとは、華やかにマスメディアをつうじて民衆のなかに伝達されていった。
こうして1人の女性の「美しい虚像」「神話」が生まれた。
王太子の妃の美貌、ロマンス、ダイアナの妊娠、王子誕生……はブリテン住民どころか世界中の大きな関心をイングランド王室に向けさせ、ブリテン市民の王室への評価や印象はかなり向上した。王室の存在への好印象と好感は、そのままブリテンの統治秩序への肯定感につながる。
メディアによって描かれる「ダイアナ妃の存在」は、落日間近、西に傾いた日のように低下傾向にあったイングランド王室の存在意味をふたたび上昇させる役割を果たすようになった。
メディアが発達したマスデモクラシー文化のなかで、旧弊な制度であるイングランド王室や王(女王)の存在意義は戦後数準年間、緩やかに低下するとともに、その存在意味や役割は従来のものから大きく変貌していた。そこに王太子妃として登壇したダイアナ。
ブリテンのマスデモクラシーのなかで「一般市民として育った」というメディアのレッテルを貼りつけられたダイアナは、「現代化された王室」を民衆にアピールして、現代社会で王室が果たす新たな役割を象徴する華麗な存在になるはずだった。
■メディアの変わり身の早さ■
ところがそもそも、ダイアナのほかにずっと以前から交際していた恋人がいたチャールズとの結婚そのものが、旧弊な王室の制度と仕組みを墨守するために捏ね上げられたイヴェントにすぎなかった。王位継承順位第1位の王子が離婚経験のある女性と結婚することは、王室としては何としても避けたい事情だった。そのための「かりそめの結婚劇」であることが、たちまち暴露されていった。
それに嫌気がさしたであろう「現代女性=ダイアナ」は、チャールズとの家庭生活を拒絶して離婚する。メディアの注目を引き連れたままに。
マスメディアは節操もなく変わり身が早い。メディアは薄汚い。あれほどチャールズとダイアナとのロマンスと結婚を囃し立てたメディアは、離婚劇が始まると、掌を返すがことく批判的な報道を展開し始める。
ロイヤルファミリーから離脱したダイアナは、メディアによって今度は、旧弊な王室の伝統を批判=指弾するセレブ女性としての役割を押しつけられた。メディアが流す彼女の動きは、王室のあり方への疑問符や「あてこすり」に結びつけられがちになった。
このように、そもそも王室をめぐるマスメディアの報道自体が、王室ブランド情報として「至高のセレブ」として、民衆や成り上がり者のスノビズムをくすぐる、すぐれて虚飾に満ちた内容と機能を持っている。
けれども、ブリテン国家=国民における王室の存在は、このような虚飾まみれのマスメディア(すなわち資本主義的文化のイデオロギー装置)をつうじて民衆に伝達されることで威信や名誉を脚色され、こうして正統化されているのだ。
つまり、王室とメディアとは《持ちつ持たれつ、持たれ合いの腐れ縁》で結びついているのだ。