■それでも女王は夏休みを続行■
世論の反発にはお構いなく、エリザベスとエディンバラ公、そして2人の王子は、バルモーラルでの晩夏の静養を続けていた。
スコットランド辺境で、メディアの喧噪からも庶民生活からもはるかに離れた場所で、山岳や草原、森林や湖沼に囲まれて、彼らは優雅な別荘生活やキャンプ、鹿猟などを「楽しんでいた」。
だが、メディアが先導する「世論の包囲網」=「民衆感情の包囲網」は輪を狭めて、王室に迫りつつあった。
バッキンガム城庭園は、すでにいち早く、ロード・チェンバリンによって、民衆の献花や弔意表明の場として開放されていた。王宮外苑(庭園公園)も開放されていた。
宮中伯=エアリィは、バッキンガム正門付近での献花を許可し、民衆が弔意表明のために王宮前に集合し、長い列をつくることを宮内府として許容していた。この裁定を女王から一任してもらう文書への女王自身の署名は、すでに強引に――なかば強要という形で――獲得していた。
だが、実際に王宮正門への献花が始まってみると、そこに集まる民衆の数は当局の想定をはるかに超えていた。しかも、時間と日を追うごとに、参集者の数も花束の数もすさまじい増大していった。
警備当局からは、バルモーラル城の女王に、民衆の行動が整然として統制のとれたものにするために、王宮前での「氏名記帳」を認めるよう求める要請が出された。しかも、花束の山に邪魔されて、王宮衛兵の交替式が正門前ではできなくなってしまった。
大変なのは、バルモーラルに随行している女王つき秘書官ロビン・ジャンブリンだった。毎日、女王が城館にいる時間を狙っては、ロンドンからの文書や問い合わせ文書や新聞などを持って、伺候しなければならない。婉曲に女王への要請を伝達して許可をもらい、裁可応諾の署名をもらうために。
■「世論」なるものの包囲網■
エリザベスもフィリップ公も、伝統的な王室のしきたりが批判にさらされ、それゆえまた従来のような王室と民衆との関係が崩れ去っていくのを、苦々しい想いで眺めていた。
バルモーラルでテレヴィを観ても、新聞を読んでも、ダイアナをめぐる話題ばかりが大げさに取り上げられていた。
マスメディアが伝えるダイアナ像は、かつて彼女が王室一員であったときに家族に見せた辛辣な顔とはかけ離れ、優雅さの装飾を施され偶像化されたものだった。この偶像化によって貶められるのは、王室の態度だった。
日曜日の夕方、チャールズバルモーラルに戻った。エリザベスは、まだ夫婦だった頃にはダイアナとあれほど対立していたチャールズが、ダイアナが死去した今では、ダイアナの「よき理解者」に変わっていること――変わり身の早さと巧みさ――に冷ややかな目を向けていた。
そのチャールズは、母親=女王を何とか説得しようとしていた。
翌月曜日、エリザベスはチャールズ(そして3頭の愛犬=猟犬)とともに山岳部での鹿狩り場に向かった。車中で2人は論争になった。チャールズはエリザベスに譲歩を迫った。そして、ダイアナは2人の息子に対する母親としては愛情深く接していたこと、そして苦しい立場のなかで立派に振舞っていたことを告げた。
メディアの主張に迎合するような息子の態度に腹を立てた女王は、車を降りて、歩いて帰ってしまった。
そして火曜日、女王一家は湖の畔でのキャンプに出かける予定だった。
ところがその朝、出発直前になってブレア首相からエリザベスに電話がかかってきた。バルモーラルに来てから2度目の首相からの――女王の譲歩を求める説得の――電話だった。
最初は、ダイアナの死去について王としての声明かコメントを発表する用意はないか」という内容だった。その提案は慇懃無礼に無視して拒否を示した。
すると今度は、「王としての声明が無理なら、せめてバッキンガム王宮のマストに半旗を掲げてはいかがか」という慫慂だった。
女王は唖然とした。
王室の歴史と伝統を無条件に尊重する以前の(保守党の)首相であれば、そんな無茶な要請はするはずがないからだ。
もちろん、王宮はウィンザー王家の私有財産で、そこに掲げる旗はイングランド王(ただし連合王国の支配者としての王家)の旗だった。つまり王旗 Royal Standard だ。国旗「ユニオンジャック」ではない。だから当然、世論に合わせる謂われはないし、王室外に去ったダイアナへの弔意を表明する手段ではありえない。
王の王宮滞在を意味するパースナルな象徴なのだ。
だから、王家の当主としての女王としてはブレアの慫慂を受け入れるわけにはいかない。
イングランド王国内用の標準女王旗