クイーン 目次
王室の威信と女王の孤独
見どころ
あらすじ
王室の存在意義はあるのか?
王室制度の虚構性
ブリテンのエリートの意識
ダイアナの孤立
女王の肖像画
ダイアナの死
ブレアの得点
女王 対 民衆
死せるダイアナ、生けるエリートを動かす
追い詰められる王室
    *王旗と国旗
「民意」と王室
狭まる包囲網
孤立する女王
女王の帰還
孤独の周りに漂うもの
ブレアと女王との再会
マスデモクラシーにおける王権
  マスデモクラシーとは…
  民衆の期待または要望
  ダイアナ公葬は浪費?
  民主主義と王制・身分制
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◆民衆の期待または要望◆

  この映画では、世論が王室の行動スタイルの変更を迫って成功した経過を描いている。制度そのものの変革には遠くおよばなかったが。それでも、この程度のチェインジを迫ることはできるのだ。
  というのも、そこには国家装置としての王室制度の存在の正統性 legitimacy が問われる局面にまでいたったからだ。
  広大な直轄領(王領地)とそこからの巨額の収入、そこにさらに民衆や企業が支払った税収から莫大な王室運営予算が配分される。このことの正統性に民衆の多数派が同意しなくなる惧れがある危機である。現行の形での王室・王制の存続をめぐって広く社会の同意を調達できなくなるという状況だ。王室の存在の当否が国家の財政配分に直接に絡めて問題となる状況、これこそブリテンのエリートが何としても避けようとした事態だ。

  ピュアリタン革命や名誉革命…イングランドの過去の革命は、すべて主要には課税制度や税収による財政資金の配分方法、とりわけ財政配分・運営における王室・王権の位置づけが中核的な問題となっていた。エリート・支配諸階級の内部で王権中央政府の財政問題をめぐって深刻な意見の対立と分裂が生じたのが、革命の原因でありきっかけだった。
  市民革命とは税制と財政をめぐる支配諸階級内部の利害対立によって引き起こされた政治的変動だった。ただし、この政治劇に参加できたのは地主貴族層と商業・金融貴族層とその取り巻き連中だけだった。

  ところが現在では、政治的変動劇には、エリート・支配諸階級の利害だけでなく「民衆多数派」の世論やメディアの意見が絡みついている。デモクラシー・レジームであるがゆえの問題だ。
  ここで、レジームや国家装置のあり方や運営スタイルをめぐる正統化 legitimation の問題が提起されてくる。社会的同意の調達である。そのさい、有力な経営組織――エリートが経営権を握っている――が担うマスメディアは総体としてレジームの正統性に関する民衆の同意を調達したり、世論を一定の枠内に誘導することで、正統化をおこなう装置・メカニズムとして機能する。

  ところで、マスメディアをつうじて「世論」の批判がおよぶのは、王や首相・政権党など、支配や統治の表舞台に立って役割を演じているエリートたちに対してである。だが、表舞台に立つ役者たちが「真のエリート」なのだろうか。表舞台に立つエリートに暗黙裡に利害や意向を伝えたり操ったりするスーパーエリートがもしいるとすれば、世論やメディアの矛先は彼らにはほとんどおよぶことはない。
  表舞台のエリートたちは、彼ら自身固有の利害や意識、価値観を持ってはいるが、大筋では誰かが書いた筋書きに沿って動いているのかもしれない。というよりも、表舞台のエリートの価値基準や行動選択の尺度は、彼らの育成環境によって形成・誘導されたものである。表舞台のエリートたちの人脈や家系や教育には、彼らが自然に身につける価値観や判断基準をインプリント・ビルトインするメカニズムが働いているといえる。


■民意は気まぐれで一貫性がなく、無責任きわまりないもの?■
  さて、この映画の1場面で、エリザベスの夫君エディンバラ公フィリップが、マスメディアや民衆がダイアナへの過剰なまでの哀悼を示したがる傾向に対して非難がましい意見を述べるところがある。
  「なぜ彼らは、知り合いでも親しくもない人(ダイアナ)に対して、これほどの同情や哀悼を寄せられるのか? 異常ではないか」と。
  率直に言うと、私もそう思う。
  ある批判的なメディアが報道したように、ダイアナ騒動はマスヒステリア状況とも見ることができるだろう。
  民衆のほとんどにとって、ダイアナはメディアが提供するイメイジにすぎない。あるいはメディアが提供する情報によって民衆が抱いたイメイジ。にもかかわらず、親しい知り合いや友人、親族を亡くしたかのような心情を抱いた。つまりは共感を示した。

  理由の1つは、王室の振る舞いに対する義憤や孤高の存在として伝えられたダイアナへの連帯感だろうと思う。王室の「人もなげな態度」や旧弊な慣習・行動スタイルに対する反感や批判を、ダイアナへの共感として表明したのだろうということだ。
  それはたとえば、私たちが、ソマリアやスーダンで暴虐や虐待を受けている民衆や難民に共感を寄せることと似ている。
  しかしながら、ダイアナはセレブであって、経済的に困窮しているわけでもなく、平和な生活や生存を脅かされている人びととはまったく違う存在だ。何不自由なく暮らす特権階級の家系のメンバーだ。ダイアナに同情するのならスーダンの難民を思え!ということにもなろう。
  となると、メディアが伝えてくるイメイジによって民衆は感情や気分を操作・誘導されていると見ることもできる。アイドルに憧れるような心情だ。つまりは安っぽい感傷でしかなく、「セレブの家庭内問題・愛憎劇」を取り上げ続けるメディアのコマーシャリズムに乗せられているだけでしかない「受動的な大衆」ではないか。
  そして、より多くの民衆が関心を持つトピックス(王室VSダイアナ問題)をメディアは報道しがちになり、そのためますます民衆の関心はそのトピックスに集中することになっていく。

  結局のところ、一般民衆の批判精神は気楽に話せる下世話な話題に集まりやすく、深刻な問題には向きにくいということなのだろうか。

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