結局、民意に迎合するため、政府と宮内府はダイアナの公葬をおこなった。
将来の王の母親としてのダイアナへの敬意なのか、王室への民衆の避難を和らげるためなのか。1人のセレブ女性のために、ただでさえ財政危機にあるブリテン政府は巨額の財政資金を出費した。
政府が福祉・教育関係支出を減らそうというときに。そして、同じ額を難民救済に向ける選択をすることはない。
おりしもそのときブリテン国家は、深刻な財政危機に直面して社会福祉や医療制度も公教育も見直しを迫られていた。保守党の政策は混乱し続けたため、この危機への対策として制度改革を訴えたブレアの労働党が総選挙で勝利したのだ。だが、改革の前途は多難だった。それは、その後の政策・財政運営の四苦八苦――福祉・公教育予算の切り捨てが続く――を見れば明らかだ。
そんな財政逼迫の危機的状況にあって、ダイアナの公葬のために莫大な国庫資金を気前よく浪費したのだ。その費用を、福祉や貧困救済とか、若者の雇用機会の創出、能力育成に用いるべき時期に。
だが、この不条理な状況は民衆(多数派)自身が求めたものだったともいえる。政府が財政逼迫を訴えているときに、王室が参列するダイアナの公葬を求めたのだから。
それでは、ダイアナ死後のあの一連の経緯をつうじて王室の運営スタイルは変革されたのだろうか。あるいは、少なくとも、王室の変革のための構想づくりのきっかけになったのだろうか。ブリテンのレジームの手直しへの構想づくりは開始されたのだろうか。
あれから約20年後の現在の時点で、その後の動きを見る限り、見るべきほどの変化や変革はなかったと結論できるだろう。
では、あの公葬(それにかかった巨費)は、民衆の一時的な気まぐれやセンティメント、激情、世論に迎合したイヴェントでしかなかったのか。
もちろん、政府の支払った金は、あのイヴェントの開催のためにさまざまなサーヴィス・物品を供給した業者企業・団体などを潤わせただろう。全世界に映像を配信したテレヴィ局は大儲けだっただろう。いわゆる「経済(波及)効果」はあったはずだ。
しかし、たったそれだけ?
となると、私たち人間は何と愚かなんだろうか。
■マスデモクラシー文化■
マスデモクラシー社会では、政府やマスメディア、公人の反応は、ますますこれ見よがしで大げさなジェスチュア――演劇の舞台での演技のように――になりつつある。紋切り型の。いっそ「様式美」さえ感じるほどの。まるで、狂言の滑稽話を観ているようだ。
政治や公的制度の芸能化、劇場化というべきか。
この映画は緊迫する政治劇としては非常に面白いが、少し突き放して、描かれた事件そのもを見つめるとき、私は虚しさを感じざるをえない。
王室の横柄な態度に対する批判はそれ自体はあってしかるべきものだった。だが、ブリテン国家の運営全体に関する問題の構図は、ほとんど考慮されることもなく、壮麗な公葬を催し王室が参列することで民衆の期待は充足され、不満や批判が収まったのだとすれば、まさに王室を政治のシンボルとしてメエディア報道の全面に押し出したことは、秩序の変動や手直しを怖れるエリートからすると「大成功」だったのかもしれない。
そもそも民衆とメディアの批判精神とは、その程度のものだったということなのだろう。そういう問題だからこそ、メディアはセンセイショナルな報道を執拗に繰り返したのだ。そういう民衆とメディアに比べると、エリザベス女王とブレアははるかに真摯に悩み、あるべき王室のイメイジを模索したといえる。
砂のように連帯や結集性を持たない大衆による泡のような批判…
映画の1シーンで、女王がブレアに嘆息してみせるところがあった。
「今の世の中では、ますます大げさで芝居がかった( grandiose )身ぶりが求められるようになっています。節度や慎みを投げ捨てるような風潮は、理解できません」と。私は、この意見に強く賛同する。
たしかに政治やメディアでは中身が空洞化し誠意のない身ぶりが横行している。そうでもしないと、民衆=観客が納得しないだろうとでも思っているのか。私たちはずいぶん軽く見られたものだ、まったく。
そして、中身が薄くなるほどに身ぶりは大げさで意味ありげにしなければならない。そういう傾向は確かに見られる。
それにしても、イングランド王室としては王子たちの結婚をめぐる旧弊な価値観や行動スタイルを見直させるうえでは、ダイアナ騒動はそれなりに大きな意味があった。王室の行為について民衆は――半ばは興味本位だが――監視しているのだということ、そして王室の行動がある程度は民衆の期待や願望に沿うものであるべきだという価値基準・行動基準を示したことはそれなりの成果だった。
だが大きな代償を払って獲得した成果だ。逼迫してなけなしの中央政府の財政のうち、かなりの額を葬儀に投じたのだから。