私も20年ほど前、仕事絡みの縁で、ブリテンのある公爵家の令嬢(20歳の妙齢の女性)と話す機会があったが、彼女は、きわめて聡明で左翼(マルクシズム)に親密な学究肌だった。パブリックスクールを拒否してフリースクールで学んだが、飛び抜けた知性は隠しようもなく、オクスブリッジ――もしかしたらいきなり博士課程しかない学寮――に進学するはずだったようだ。
彼女は自分の家門にもかかわらず、王政廃止論者だった。
ブリテンの上級貴族は、そんなものなのだ。なにしろ、選挙で選ばれるのではなく身分で就任する貴族員院のなかにはいつでも必ずコミュニストがいるくらいなのだ。その貴族院議院は、役割として――あるいは趣味として――マルクシストを任じているようだ。大金持ちの有力貴族だから、けっして転向することはないし、金に糸目をつけずに活動できる。
かくも、ブリテン(ことに支配階級)は、不思議な社会である。
ことほどさように、ブリテンのスーパーエリート階級のなかでも、高位の貴族たちと王室・王族のメンバーとのあいだには意識や行動スタイルでとてつもなく大きなの差が存在するのだ。名門貴族の令嬢ダイアナだって、王室よりもはるかに自由な環境で育ってきたはずだ。
さて、ダイアナの結婚劇に経過について、皮肉を込めた視点で眺めてみよう。
王国の住民には市民権=人権を付与しても、王族自身には通常の市民権はない――有り余る財産と威信を保有するけれども。もっとも、市民権を保障する憲法制度は、本来、王の政府による専制を抑制・防止するために生み出された仕組みなのだから、当然と言えば当然か?
そして、庶民院の総選挙は形の上では「王の政府」を組織するための議会選挙だから、王室に選挙権があると、これまた奇妙な具合になってしまうだろう。だから、王室に嫁す女性は、一般市民としての権利や尊厳を奪い取られてしまうことになる。メディアに対しても「プライヴァシー」を理由に訴訟を起こすこともできない。
それにしてもともあれ、現代社会ブリテンではチャールズとダイアナとの婚約・結婚を美しく飾り立てるために、マスメディアを動員あるいは誘導操作してラヴ・ロマンスの物語=虚構がつくり上げられていった。そして華々しい王室の婚儀の大々的報道が展開された。
ダイアナは、旧弊な制度や慣習にがんじがらめに束縛された王室に「外から」入る決断をしたときに、どのように感じ考えたのだろう――それまでの自由を奪われ、束縛されることについて。
たしかに王族には、私たちのようには食いはぐれがない。だが、個人としての自由――そこには当然「飢える自由=リスク」も含まれる――が大幅に制限される。個人としての政治的意見の表明は許されない。夫チャールズには結婚(相手の選択)の自由はないに等しかった。
王室は連合王国を構成する諸民族(スコットランド、ウェイルズ、アイアランド、イングランドなど複数の民族)と住民の統合の象徴である。その意味では、国民国家としてのレジームには不可欠なのだろう。だが、個人にはときにきわめて過酷な人生選択=運命を課すことになる。
それでも、生まれながらに王室に育った者には、独特の家庭環境のなかで育ったのだから、その制約を不自由と感じないような心性や感性がインプリントされているだろう。だが、妃として外部から王室メンバーになった者には、耐えがたい過酷な生存環境となるに違いない。王子たちに妃を迎えるということは、かくも残酷な所業なのだ。
この悲劇を避けるためには、特別な女性を王妃となるべく、はじめから一般社会から隔離して――つまり人権や祖自由を奪い取って――特別の環境で育てるしかない。まさに超セレブだが、「家畜」いや「人畜」の扱いだとさえ言えるだろう。
このような文脈で考えたとき、王室制度を存続させる意味はあるのだろうか、深い疑念がわく。