ともあれ結局、ダイアナがチャールズの妃――普通の妻ではない――となった。その後の経過を少し想像してみよう。
王室の一員となるべくオリエンテイションを受けることになっただろう。そこで、とりわけチャールズの女性関係「衝撃の事実」を告げられ、その苦痛の受忍を迫られただろう。
じつはチャールズには恋人=愛人がいる。だが、彼女は離婚経験があるので、婚姻は結べないので、あなたがチャールズの妃となった。「プリンス・オヴ・ウェイルズとはそういうものなのです、妃殿下」
そう告げられて、ダイアナは絶句しただろう。
それでもはじめのうちは、この環境に耐えようと努力をしただろう。王や大貴族には幾人もの愛人がいるのが普通?……なのだから。
けれども、現代女性としてごく普通の心性や自己尊厳(プライド)が、いつのまにか、現代社会のモラルと良識から隔絶した王室の生活への嫌悪感を増幅していっただろう。そうなると精神的平衡を保つためには、子どもたちをチャールズの手元に残して、離婚するしかなかった。
だが離婚して王室を離れても、彼女が安心して戻る「普通の市民生活」はもはやなかった。王家に残してきた2人の王子の母親であることばかりでなく、彼女には政治家や芸能人などとは比べもにならないほどのイメイジ価値とセレブリティーが備わっていたのだ。メディアが執拗につきまとうようになった。だから、ダイアナにはプライヴァシーがなかった。
というのは、メディアにとってダイアナのプライヴァシーを暴き立てることは大きな金になったからだ。彼女のプライヴァシーを暴きだして撮影することで巨額の成功報酬を獲得しようとするパパラッチの襲撃が待ち構えていた。
ダイアナが前にもましてブリテン庶民の注目を浴びた理由としては、旧弊な因習に縛られているイングランド王室――ブリテン最大の地主・資産家であって、ヨーロッパの多数の最有力・優良企業の大株主でもあることへの庶民のやっかみもあって――への疑念や批判のシンボルとしてメディアによって利用されたという側面もあるだろう。
さて映画作品の物語に戻ろう。
エリザベス2世は、バッキンガム宮殿の1室で王としての威厳に満ちた服装で、画家に向き合っていた。画家は、彼女の肖像画を描いていた。彼の筆は、女王の気品と威厳を如実に表現しようとしていた。女王は、王のたしなみとして、死後に備えて定期的に――自らの葬儀も含めた王室の儀典用に――肖像画を描かせることになっているらしい。
そう、この物語は冒頭の場面にるように、女王のポートレイトを描き出そうとしているのだ。ダイアナの死をめぐる王室の動きやメディアの報道を背景にして、エリザベスの姿を描き出そうとしているのだ。
2人は会話していた。話題は総選挙の結果だった。トニー・ブレアが率いる労働党が保守党に壊滅的打撃を与えて圧勝した。
「残念ながら、王には選挙権がないのよ。私も一度は投票してみたいわ。いえ、投票というよりも、自分の意見を表明してみたいのよ」
女王は何気なく話した。
「マアム、気にすることはありません。だって、今度の政権もあなたの政府を組織するのでしょう。政府はあなたのものです」
画家は返答した。王室専属の画家たちは、王室メンバーの自然な表情――あるいは画家が描きたい表情――を引き出すために、余計な無駄口をたたくことなく、女王や王家の人びとと如才なく会話できる教養と機知、センスが求められる。この画家は描画の才能だけでなく、相当に優秀なようだ。
「ところで、トニー・ブレアは統治レジームに革新をもたらしたいそうね。王室にも新しいことを求めるのかしら」
「私は今までのままが望みですよ」女王の気持ちを読んだ画方は巧みに答えた。