私たちは映画『ターミナル』の考察で、国家と国家のあいだに築かれた法的・政治的な障壁が、国境を越えて移動する人びとの前にどれほど厳しく立ちはだかるかを見た。
今回は、貧困な本国から逃れ出て国境を超えてアメリカに自由とかよりよい労働機会や経済的成功のチャンスを求めて移住する人びとに対して、国家が組織した障壁や監視制度がどのように立ちはだかるかを考察する。
2つの作品ともに、リベラルなアメリカ市民の視点から、不法移民や移住者たちに対して国家による規制や監視システムがいかに冷酷かつ厳格に機能しているかが描かれる。
『扉をたたく人』では、アメリカ市民と移民たちが互いに友情を結び理解し合えても、国家が求める規制制度に従わないときには、強制送還によって家族や友人、恋人たちが引き裂かれる過酷な運命にあること、それに対して一般市民は何の力も持ちえないことが描かれる。
『正義のゆくえ』では、移民関税統制局( ICE : Immigration and Customs Enforcement
)の執行官が主人公で、国境を管理し移民を規制する職務につきながらも移民たちが置かれた立場に心を痛め、彼らの権利の擁護と不法移民に対する国家の規制監視とのあいだの板挟みになり、苦悩する姿が描かれる。この作品はすぐれて、政府による国境管理と移民規制の重苦しさや酷薄さに疑問を投げかけている。
移民を受け入れながら連邦国家と市民社会を形成してきたアメリカにしてさえ、国境と国籍性の障壁はいかに厚く過酷なものであるかを描き出した、すぐれた作品である。
国民国家の存在や国境制度は政治学で最も難しい問題なので、このあとの予備的考察はかなり面倒くさい。そんな理屈は読みたくないという読者は、このあとの文章を読み飛ばして『扉をたたく人』の物語に進んでください。
この2つの作品を社会史的視点から眺めるために、国民と国家( nation & state )をめぐる歴史について一瞥しておく。つねに「一国的な文脈」で歴史や出来事を眺めるという、私たちの認識方法や精神的態度・性癖を突き放して批判的に検討する必要があるからだ。
中世のヨーロッパでは、ネイションの語源となった natio / gens とは本来「生まれながら」の部族集団とか血縁集団、氏族、同郷集団を意味していた。そこから、「生まれながらの家柄・身分」「同じ身分からなる集団」を意味するようになった。 natio は natura ( nature )と同じ語源から生まれた言葉だった。
やがて有力領主・王権が直轄領の家政的支配装置を組織し、「王国なるもの」の統治装置をつくり出すようになると、統治装置や身分評議会・等族評議会に結集する貴族団や都市代表たちが自らを「ナーチオ」や「ジャン」と意識するようになった。王や有力君主の統治に参加する特権的な身分集合として。
こうして nation は、王権の周囲に結集した特権的諸身分の集合を意味する語として成立していく。やがて、国家の構成員として市民権・公民権を認められた住民をネイションと呼ぶようになる。さらに時代が進んで、市民権・公民権が域内のすべての住民に付与されるようになると、国家によって統合された全住民集団を国民と呼ぶようになった。
かくして、近代世界において実在するネイションは、すべて国家によって組織化され制度化された存在である。
しかし、「民族」としてのネイションが国家の成立に先行して存在していたと見る先入観が広く深く幅を利かせている。すなわち、国家に先行して歴史的に形成されていた民族が母体となって、国家=国民国家が成立したという虚偽イデオロギーである。
だが、現実に存在する国民を分析してみると、国家の形成にともない国家によって組織化された制度ないしは擬制として存在するにすぎない。
つまるところ、国家がその正統化のためにつくり出した「神話」=歴史観が国家によって組織化された公教育制度をつうじて住民にインプリントされ、近代国家の母体として民族( ethno-national group )が先駆けて存在していたという「先験的民族観」(幻想)が仕立て上げられたのである。