大学教授のウォルターは末端ではあっても知的エリート階層に属していて、経済的には比較的豊かな中産階層に位置している。別宅ともいうべきコンドミニアムも何室か所有していて、一般市民のなかでは恵まれた生活条件にある。
だが連邦国家の権力作用や政策に対しては無力だ。ウォルターはタレクの不法滞在をめぐって、そのことを思い知ることになる。
ウォルターは、妻亡きあとの孤独感や空虚感を埋め合わせるかのように偶然、タリクとそのガールフレンドと知り合った。そして、ジャンべの演奏をつうじてタリクと心の絆を結び、家族のように親しくなって深い共感を得ることができた。
ところが、そのタレクが国外退去・強制送還になるかもしれない。ウォルターは手を尽くしてタレクを支援しようとした。優秀な弁護士を雇い、毎晩のように留置場を訪れた。
そして、シカゴにいるタレクの母親にも連絡を取って、移民局への審判申請の手続きを取った。
これは今61歳の私自身が日ごろ感じていることだが……
ある程度長く生きて老齢とも言うべき年齢に達すると、親しかった多くの人びと(とくに先輩・年長者)との死別を頻繁に体験するようになる。「ああ、高齢になって生き延びるということは、多くの家族や親類縁者、知己、友人を一人また一人と失って、そういう寂寥感を抱えていくことなんだな」としみじみ感じるものだ。
そういう境涯にさしかかってみると、とくに若い世代の知己を得たりするのは、以外に大きな幸運と感じる。空虚になっていく自分の生活の隙間を埋めてもらえるようで、大変ありがたいものだ。
だから、ウォルターがタレクのアメリカ滞在の権利を守るために奔走する気持ちは切実なほどによくわかる――若い友人のために奮闘する気持ちが。それは、ウォルター自身の孤独感や空虚感を埋めてくれる存在を守るためであり、自分のためなのだ。
これが2001年9月のテロ事件以前であれば、アメリカには困難な立場にある移民たちに寛容な態度を示すゆとりが当局にはあっただろう。
ところが、あの大規模テロ事件以降、合衆国の国家装置=当局の不法移民たちへの態度は、恐ろしく頑なで厳格なものに転換してしまった。それどころか、すでに市民権を得ている中東・アラブ系の人びと、あるいはイスラム教徒に対する態度も、ひどく猜疑心が強まっている。
「危険要因は、とにかく排除・放擲する」当局の態度はこれに尽きる、とも言えるほどになって来た。
そして、それは多くの非アラブ・非イスラム教徒市民の態度や心性として現れているようだ。すでに経済格差によって断裂や利害対立が顕著になってきた市民社会に、新たな大きな亀裂・分裂や対立が生じている。そして、そういう断裂・亀裂・対立の諸要因が相乗して増幅し合うようになっている。
ウォルターや弁護士たちの努力にもかかわらず、結局、タレク母子は国外退去・強制送還になってしまった。
タレクとの愛、そして2人の将来――結婚して家族をつくること――を夢見ていたザイナブの悲嘆は並大抵ではなかった。
ウォルターは、嘆き悲しんだ。何よりもタレクの身の上を。また、ふたたび孤独に陥った自分を。そして、不寛容さと排外主義を強める国家・当局に対して一般市民があまりにも無力になっている状況を。
一般市民が国家の政策に対して無力になっている原因は、一般市民そのものの内部に意見や利害の対立・分裂があって、市民たちが連帯して政府に異議申し立てをする状況にはないことにもある。そして、排外主義的な運動が一般市民のなかから起きているのが現状なのだ。
「私たち市民は、こんなにも無力になってしまったのか!」
恋人や友情や市民同士の連帯・共感を無慈悲に引き裂く国家と国籍の壁。
その障壁は、アメリカの市民社会の理念と秩序に忠実で自由を求める人びとに対しても、テロリスト容疑者と同じように一律に排除――強制退去・居住権の剥奪――の基準を容赦なく当てはめるようになっている。
国民国家の一律の障壁=基準が、硬直的な官僚主義や一部の市民の排外的感情と絡み合って、「自由な市民社会」の根底を掘り崩している。
国民国家の障壁というものは、国境システムや国政制度、中央政府の政策だけでなく、一般市民たちの内部にある偏見・先入観や排外的感情、根拠のない優越感などが絡み合ってつくり上げられているものなのだ。
とても重い問題を投げかけて、この物語は終わる。