国家形成・国民形成について――正確に言えば、国民形成における移民の役割について――USAは独特の歴史をもっている。
北アメリカ大陸は「大航海時代」以降、西ヨーロッパの植民地として開拓された。ヨーロッパ系移住民が原住民を駆逐して領土を拡大し、独特の経済圏・文化圏を形成した。やがて本国ブリテンの収奪や支配に対して植民地同盟が分離独立をめざして蜂起し、ブリテンとの長い軍事的敵対ののちに独立し、やがて域内諸州の政治的統合を達成していった。
独立闘争の中核となった東部諸州は、支配地を西へ南へと拡張していった。
領土の膨張は、人口の増大を必要とした。そのため、労働力や軍の兵員として、多くの移住者を受け入れ続けた。
だが、植民地状態からの独立闘争では域内の政治的統合がきわめて貧弱だった。独立した諸州はひとまとまりの国家を形成してはいなかった。
名目的に独立派したものの南部諸州では、輸出用の原料作物としての綿花やタバコの生産に依拠する所領経営――モノカルチャー経済――がブリテンに深く従属していた。南部諸州はそれぞれ別個に自立した政治状態を固守しようと望んでいた。
けれども工業化した北部諸州は1860年代、南部の域外従属構造を断ち切るために南部に戦争を仕かけて勝利し、南部諸州を連邦体制に強固に統合していく道を開いた。つまり、強固なひとまとまりの関税障壁の内部に南部諸州を包摂したのだ。それが「南北戦争」の中心的な内容だった。そのときから、北アメリカの合衆国は国民国家(統合)への道を驀進する。
ところが、1920〜30年代に連邦国家=国民国家としての統合が確立すると、移民の受け入れについてさまざなな制限を設けていくことになる。移民として流入する人口の規模が飛躍的に増加したからだ。だが、連邦国家の内部にはさまざまな「既得権益」が集積したため、それを保全する秩序を構築しながら、移民系住民を規制し、既成エリートを頂点とする「ひとつの国民」に統合していく必要が意識されたからだ。
だが、おりしもその時代よりも2世代ほど前に、アメリカは技術革新を持続させながらヨーロッパに対する「規模の経済」の優位を確立し、世界経済のなかで工業力では最優位を獲得し、国際競争での覇権を獲得していく。それまでどこの国家も経験しなかったほどの経済的・物質的繁栄を謳歌していくことになった。
その結果、移民規制の制度ができてからも、豊かな社会への移住を求めて、世界中から移住者が押し寄せる状況は変わらないどころか、ますます加速していことになった。
とはいえ、合衆国はヨーロッパ列強諸国に比べて優越するほどの軍事力――とりわけ海洋権力――を備えていたわけではないし、世界秩序・国際秩序について強い発言力を行使し、統制しようとする意図はまだ持ち合わせていなかった。そんな状況を2つの世界戦争とその間に位置する世界大恐慌が決定的に転換してしまった。
この構造転換の諸位相はつまり
……主戦場となったヨーロッパは荒廃して深刻な財政・金融危機に陥たっため、戦時需要で経済的に急膨張したアメリカが金融経済の圧倒的な優越を達成してしまったため、財政・金融面での戦後復興支援を担うことになった。ゆえに、世界貿易と世界金融を誘導し組織化するセンターとしての役割をアメリカが担うようになった。
他方では、大金融恐慌から国内経済を再建するために国家装置=連邦政府が経済に大がかりに介入し、産業と市場を誘導・再編成する仕組みを築き上げた。連邦政府の諮問機関や委員会に連邦全体から金融・工業・娯楽産業各界のエリートを結集させ、危機管理体制を組織した。
さらにドイツでのナチズムの勃興と日本での軍部の台頭によって列強諸国家の対立が激化して、従来のブリテン帝国を中心とする世界秩序が不安定化し崩れ始めたために、アメリカは軍備増強の方向で有効需要を喚起して、大不況で委縮した国内産業を再編する計画を進めた。
この動きは、第2次世界戦争を経て軍産複合体が国家と経済の支配的中核に居座る構造を生み出すことになった。そして、戦争後の冷戦構造のなかでアメリカが西側の盟主となったことで、軍産複合体の権力は飛躍的に拡張していく。
こうしてアメリカが世界経済のヘゲモニーを掌握したことから、移民問題は新たな様相を帯びるようになった。合衆国は、ネーデルラントやブリテンのように広大な海外植民地帝国を築いたわけではないが、合衆国中心の世界秩序の指揮・組織者として振る舞い、また世界の貿易・金融循環を組織化するセンターとなったために、世界の辺境地帯から――経済的理由に加えて政治的理由によって――さらに多くの移民を引き寄せるようになった。