この映画の原題は、すでに見たように《 Crossin Over 》なのだが、邦題は「正義のゆくえ」となっている。
あえてこういう題名にしたのは、主人公、マックス・ブロウガンを中心とする合衆国移民関税統制局の係官たちの職務が、合衆国の法律を正当に執行するものであるにもかかわらず、それが結果として、ときには迫害や貧困から逃れてアメリカに移住してくる人びとの権利や尊厳を著しく脅かすこともある、つまりは法の執行が本当の正義を実現するとは限らないという事情を反映したものと思う。
主人公マックスの職務は合衆国移民関税統制官。カリフォーニア州ロスアンジェルス支局に所属し、州南端のメクシコ国境で国境を超える人びとの移動を監視している。
彼は、不法移民やら密入国者――彼らがアメリカに持ち込む荷物には密輸品が含まれることもあるので、関税法上執行という職務もともなうことになる――を監視・統制するために、日々苦悩しながらも奮闘している。
職務執行に日常的に苦悩がともなう……というのは、移民の統制管理は現存の合衆国の統治レジームの安定維持をめざすもので、必ずしも不法移民の権利や尊厳を守るものになっていないからだ。
移民たちの立場や権利を極力尊重したいという願望と彼らの行動の監視や統制という職務との「板挟み」になっているのだ。
とりわけ、2001年9月の大がかりなテロ事件ののち、当局の不法移民に対する態度はかなり厳格化し、以前のように、移民たちのアメリカ市民社会への融合・統合を支援するという課題よりも、「異端分子・危険分子の排除」の傾向が目立って強まっている事情が、その背景にある。
マックス自身、ブロウガンという家系名からもわかるように、アイアランド系で、先祖は故国での迫害や貧窮から逃れるためにアメリカに移住してきたのであろう。そういう自分のルーツが職務をおこなうさいの彼の態度に影響しているのだろうと思う。
またこの映画では、メインストーリーに副奏するサブストーリーとして、バングラデシュからの不法移民家族の娘(15歳)のタスリマ・ジャハンギールが自分に正直に生きようとするあまり、現状のアメリカの政治・意識状況に適応できないため、追い詰められ強制送還に処されるまでの経過が描かれる。
そこには、反テロリズムという名目のもとに排外主義が強まっていて、多様な発想や表現・言論の自由が大幅に制限されている現状を、静かに穏やかに批判する視点が込められている。
ところで原題《 crossing over 》には、「カテゴリーの境界線を超える」「相違を超えて融合する」という意味がある。音楽などの芸術で、既存のジャンル分け境界を超えて融合した新たな次元を創造するという意味もある。
ここでは何よりも、「国境を超える」「国籍や国境の障壁を超える」という意味が第一義的なのだろう。
……だが、主人公マックスの立場からすると、日々の苦悩・ディレンマから職務の限界にぶち当たりそれ超える視点に立ったということになり、超えたがゆえのさらなる苦悩ということにもなる。
あるいは他方、密入国者の女性タスリマの立場に立つと、「状況が許容する限界を超えてしまう」つまり「排除(強制送還)の原因をつくる」という文脈になるのかもしれない。
原題には、そういう意味が込められているかもしれない。