以上のように、この作品では、いくつもの移民が絡む事件の経緯を追跡しながら、国境・国籍の壁をクロスオーヴァーした人びとの意識・意思・苦悩、そして心性などが描かれている。いわばドキュメンタリー・フィクションに近い手法で、事件ごとに切り口を変えながら、現代アメリカにおける「移民問題」の断面を描き出している。
現代世界には、一方に政治的あるいは文化的・宗教的な抑圧・圧迫とか経済的貧困がいたるところにある。他方で、メディアやコミュニケイション手段、交通手段が発達していて、機会を見つけて、抑圧や貧困の地から「恵まれた先進諸国」に逃避する可能性も開けている。
ところが、国境を超えた移住は、移住先の国家や社会が築き上げているさまざまな障壁や防護壁との衝突や軋轢を生み出す。移民という事象は、困難から逃れるために移住してきた者たちにとっては、さまざまな障壁を乗り越え、すりぬけて移住先の社会に溶け込むために、きわめてリスクの高い冒険でもある。
ここでは、貧困や政治的抑圧から逃れたアメリカに移住してきた人びと――正規の手続きを経た場合もあれば経ない場合もある――の動きや生活をめぐる事件が、一方では移民たち自身の視点で、他方ではそれぞれを見つめるアメリカ市民の側からの視点で描かれる。
アメリカ市民の側とはいってもきわめて多様だ。メクシコ人シングルマザー、ミレーヤの動きを見つめる視点は、マックス・ブロウガンのものである。国境での移民の監視や規制に携わっているけれども、移民たちの立場に同情的な眼差しだ。
また、タスリマ・ジャハンギールの行動や心理を見守るのは、移民の人権擁護活動に携わる女性弁護士、デニーズ・フランケルの視点である。彼女は、「アメリカの自由」、すなわち思想信条、言論・表現の自由は憲法で保障されていると主張して、タスリマの立場を擁護する。だが、テロリズムを受容しかねない言論や行動は、とりわけ不法移民には許されないという当局の立場に敗れてしまう。
この事件で暗澹たる思いになるのは、アメリカの市民社会がかなり排他的・閉鎖的になっている事実だ。タスリマが通う学校の校長や教師の多数、そしてコミュニティの多数派は、政権の思惑に沿って、移民系家庭の生徒や住民に猜疑の目を向け監視している。あるいは市民たちが相互に監視し合っている。そういう社会状況が、現にあるということだ。
リベラル派女性弁護士デニーズは、包容力と寛容さを失っているアメリカ社会、そして「反テロ」を口実に市民社会への監視や介入を強めている行政権力に対して、強い懸念を抱いている。
マックスやデニーズは、今のアメリカ(当局と多数派)が失っている寛容と良識を備え、目の前の現状に憂慮する視線をたたえている。
ところが他方、妻のデニーズがバングラデシュ出身の少女の権利を守るために奮闘している、そのさなかに、夫のコウルは不法移民のオストラリア人の若い女性の弱みにつけ込んで情交を迫っていたという事実は、現代アメリカ社会の不条理を象徴する出来事だろう。
夫が逮捕される姿を見て、驚愕しながらも「救いようがないない」と絶望しかけているデニーズの眼差しは、痛々しい。