2001年9月の大規模テロ事件以後、アメリカでは思想の表現や報道は失われてきた。ブッシュ政権のアフガン戦争、イラク戦争への突入など、連邦国家の政策もさることながら、市民や報道機関、教育機関さえもが、当局な排外感情にすり寄って自己規制や監視をおこない、自由権に大きな制約を課すようになっているのだという。
国家と市民社会が手を携えて硬直化し不寛容になっているように見える。
世界におけるアメリカの圧倒的な優位はすっかり過去のものとなり、経済成長の余地が少なくなり、停滞する経済のなかで社会の富は少数者に集中し、経済的に余裕がなくなった民衆が身を守るために保守化し、とりわけ移民・難民の受け入れに対して不寛容になっているようだ。
そして階級格差の拡大と利害の対立の深刻化によってアメリカ社会内部の分裂や政治的対立が激しくなっている。一般労働者など経済的に下層の民衆ほど視野が狭くなり、不寛容になって保守化している。有力企業やエリートたちは、自分たちに有利な分配の構造を変えるつもりはなく、権力をもたない下層民衆は既得権にしがみつくしかないということなのかもしれない。
この傾向には、アメリカ社会の内部からも危惧や批判が出されている。
この映画の物語は、そういう社会状況や当局の姿勢を描き出している。
では、物語を追ってみよう。
ウォルター・ヴェイルは、コネティカット州ニュウロンドン市のコネティカット大学――リベラルアーツ(一般教養・自由技芸)専門の単科大学――で経済学を教える教授をしている。先頃、長年連れ添った妻に先立たれ、孤独な生活を余儀なくされている。近頃は、何事にも意欲が続かなくなった。
どうやら彼の妻は、ピアノ演奏家だったらしい。彼女の死後、ピアノのレッスンを受け始めたが、老齢でもあって学習能力や適応力は衰えていて進歩もはかばかしくなく、やる気を失ってやめたばかりだ。
今では、カレッジでの学生向け講義やゼミナールも若者たちの学習意欲を引き出すというものではなくなって、「ノルマをこなす」というようなものになっている。研究を意欲的に進める野心も失った。
ところが、そのウォルターが、急遽、ニュウヨーク大学での学会での学術報告・講演をするはめになった。彼の指導を受けていた若手の女性教授と共著の論文(書籍)を先頃刊行したので、その論文のテーマについて報告と解説、質問応答をしてくるように学長から指示されたためだった。
若手女性教授は講義と研究に忙殺されていて、手があかないからだ。
「あれは、これまで実績のない彼女が本を出版するために共著者としての名前を貸しただけで、論文の内容については、通り一遍にしか理解していない。
だから、断る」
ウォルターはそう返答したのだが、学長に押し切られた格好だった。
仕方なくニュウヨークの学会に出向いた。宿泊場所には困らなかった。というのも、ニュウヨーク、マンハッタンのダウンタウンにコンドミニアムの数部屋を持っているからだ。
亡き妻がニュウヨークで演奏会を開くため、あるいは休暇を過ごすために長年使ってきた住居だったが、妻を失ってからこの半年間は訪れていなかった。
■ジャンべ演奏者の若者■
さて、学会の初日を終えてニュウヨークの住居に来てみると、部屋の鍵が開いていて、誰かが住んでいる様子だった。疑念を抱いて調べてみると、若いカップルが、住みついていた。彼らに尋ねてみると、知り合いの仲介(高い仲介料を払って)で、部屋の居住権と鍵を手に入れたという。
それぞれが1部屋ずつをベッドルーム・私室として使い、ほかの部屋と空間は共有していたらしい。
彼らは詐欺にあったのだ。
彼らは、最近、ニュウヨークに来たようで、所持金もわずかで、ほかに行くあてがないという。わずかな所持金も、詐欺にあって失ってしまった。
孤独な教授は、若い2人に、ほかに住む場所のあてがつくまで、いつまでも部屋に住み続けていいと許可した。
青年はパレスティナ出身のシリア人で名はタレク。彼は優れたジャンべ(アフリカ風の縦長筒型の太鼓)の演奏者だという。一方、若い女性はセネガル人で名はザイナブで、セネガル風の宝飾デザイナーだった。
2人は不法移民のカップルであるために容易に住居を見つけることができないという弱みにつけ込まれて、金を払ったうえに騙されてウォルターのコンドミニアム・アパートメントに住むことになったのだ。
しばらくしてウォルターはタレクがジャンべ・ドラムの演奏者であることを知り、興味を持った。演奏が難しいピアノのレッスンからは落ちこぼれたウォルターだったが、タレクに自分の身体から自然に湧き上がるリズム感にしたがって自由に叩けばいいと教えられて、試しにジャンべを叩いてみた。
1週間もすると、ウォルターはすっかりジャンべの演奏にはまってしまった。そのときの自分の気持ちに即して単純にリズムだけを刻む演奏は、妻を失ってからの鬱屈した感情の吐け口――自己表現――になったのかもしれない。
タレクは、ニュウヨークのドラム演奏家の世界では才能と実績を認められつつあった。いろいろな演奏グループから客演を依頼されるようになっていた。