この記事の目次

はじめに

1 経済学批判体系の構想

イデオロギー批判の難しさ

《資本》の出版編集の来歴

考察の方法

経済学批判の全体構想

2《資本》に叙述され…

商品・貨幣論は世界市場を…

価値の源泉としての労働

認識の方法論の問題

権力構造としての価値法則

3〈資本の生産過程〉の仮定

純粋培養された資本主義

マルクスが目にした現実

〈資本の支配〉と生産過程

ソヴィエト・マルクシズム

重層的な〈資本の支配〉

4「資本の生産過程」の論理

剰余価値生産の2形態

絶対的剰余価値の生産

相対的剰余価値の生産

技術革新と産業革命

5 価値としての資本の運動

可変資本と不変資本…

価値形成と価値移転

生産管理の指標…原価計算

生産管理の指標…原価計算

7 労働価値説の理論史

国家と貿易

8「純粋培養」モデル…

共産党宣言

…〈世界市場的連関〉

「独占資本…金融資本」…

ローザ・ルクセンブルク

…マルクスの限界

9 世界市場的文脈で…

世界経済のヘゲモニー

世界市場とヘゲモニーの歴史

地中海世界経済

長い過渡期

考察視座の再確認

ヨーロッパ諸国家体系…

■認識の方法論の問題■

  ここで、マルクスがブルジョワ社会を認識において再構成する方法 Dialektik について考えてみたい。
  商品・貨幣論から資本の生関係に進む論理過程で、マルクスはより抽象的・一般的な次元から、カテゴリーを組み立てながら、より特殊で具体的な次元に認識を進める。言い方を変えれば、より長い期間にわたって妥当する、歴史貫通的な規定から、より特殊である歴史段階にだけ固有の規定へと進むわけだ。
  ブローデル風に言えば、「長期的持続の位相」から特殊な歴史的段階に固有の位相に進むのだが。
  そのさい、マルクスは、商品価値論に、アダム・スミス譲りの「モラルエコノミー」というか「道徳哲学」、つまり人間にとってあるべき理想像としての生産活動とか労働とかを持ち込む。
  どういうことか見てみよう。

  労働とは、生物種としての人間の社会が持続的に再生産されていくために、人間が自然界から社会的生存に必要な資源を加工し獲得する過程である。人類の物質代謝を媒介する活動が労働なのである。
  この意味での労働は、人類の歴史と同じ長い期間存在してきた。
  だが、このような、どの時代にも妥当するような、抽象的な労働の意味合いが、そのまま商品の価値を形成する労働になるのではない。
  商品生産・交換の歴史は、もっと短い。そして、資本主義的生産様式が支配的な社会の歴史は、商品生産の歴史のなかのこれまた特殊な局面であって、もっとずっと短い。
  こうして、人間労働一般を一番下の基層に置いて、その上に商品生産をもたらす労働の歴史、さらにその上に資本の支配のもとでの労働の歴史…というように、より抽象的=一般的な規定の上により特殊な規定をオーヴァーレイさせていく論理的方法で、マルクスは資本主義的経済に接近しようとする。

  生産物が商品という形態で生産されるためには、生産手段が個人や集団ごとに分割所有され、私的所有が発生している社会的環境が必要である。しかも、私的所有者と私的所有者との取引が広範な商品流通に媒介されているような。
  この流通過程は、利潤獲得をめざす商人たちによって開拓・組織されているはずのものである。
  そうなると、個人や集団の間での利害得失をめぐる対立や紛争、駆け引きが繰り広げられている社会状況となる。
  つまり、そのなかでは一定の力関係、権力関係ができ上がっているわけだ。
  あれこれの労働の価値生産性についての評価もまた、この権力関係によって規定されることになる。このことについて、マルクスは、商品論にあれほど冗長な饒舌をふるいながら、ほとんど説明していない。
  商品生産では、「人類にとって本来あるべき労働」は後景に退き、利害得失をめぐる権力関係によって価値序列を与えられた労働だけが存在するのだ。
  《要綱》では、この点に関するマルクスの模索というか悩みが記述されている。もはや、対立的な利害のなかで諸個人が収益を得るための手段となった労働として。

  こうしてみると、《資本》の商品・貨幣論は、現実の近代資本主義的経済を分析して抽出した商品という社会的形態を十分に描き切っているとは言い難い。《資本》の商品・貨幣論はきわめて不十分な完成度に終わっている。
  私は、マルクスは、商品・貨幣論についてもプランでもくろんだ段階まで書き終えていないのだと思う。未完成なのだ。欠落部分は、私たち考察者の側で、補うしかない。
  この曖昧さは彼の「プロレタリア革命思想」による歪みだと見られる。というのは、資本の支配のもとで「疎外された労働」はそれ自体としてはあくまで資本の価値増殖の手段でしかないのであって、労働による資本に対する反乱の原因とはなっても、人間の社会的解放としての革命の担い手にはなりえないということを認めたくなかったからだだろう。

■権力構造としての価値法則■

  現代世界経済の問題を取り上げて、考えてみよう。
  たとえば、1970年代。ときはパクス・アメリカーナの時代。そこで、最も付加価値生産性の高い労働とは、アメリカの軍産複合体に属す経営組織でおこなわれる労働である。ここでの生産・分配が、世界的規模での資本蓄積の基軸(利潤率・収益性の最も高い経済部門)をなしているのだ。
  ところが、《資本》では、アダム・スミス以来の方法論を踏襲して、国家の活動は「非生産的活動」であって、生産的労働の成果の浪費でしかないものと位置づけられている。本来の原理では、国家は、自立的に運動する経済にとって、外的な存在であって、経済での再生産過程=生産や消費から排除されるべき人間活動であるという。まして、国家の軍事活動は、人間生活の破壊をもたらしかねないもので、非生産的浪費の最たるものである。
  だが、現代の資本主義的世界経済では、パクス・アメリカーナという特殊な〈資本の権力〉のもとでは、最も分配率評価の高い活動・労働と位置づけられている。
  この具体的な現象形態を説明するための論理をどう組み立てるか。

  2つ目の事例。   1980〜90年代。世界の中心都市、ニューヨークのウォール街の快適なオフィスでの1時間の仕事の給料は、たとえばフィリピンのバナナ・プランテイション農園の労働者の1か月の賃金より、いや場合によっては年間賃金よりも、もずっと高かった。フィリピンの農園労働者の年間所得は、200ドルくらいだったか。
  そこには直接的な暴力は介入していない。合法的な経済的取引の結果として、こうなるのだ。このような労働生産性の評価システムは、なぜ、どのようにして生まれてきて、機能しているのか。
  ここには「等価交換」の法則が働いている。等価交換とは、特定の価値評価システムのもとで、それぞれ生産の社会的条件の異なる労働、質的に異なる労働を、単一平面の、世界市場での交換に結びつける特殊な共同主観(価値尺度)のことである。
  だが、それは「等価交換」ではあっても、「平等な交換」ではない。これを、北欧の経済学者ミュルダールたちは「不平等交換( unequal exchange )」と呼んだ。不平等、不均等な労働(社会的条件)を結びつけて「等価交換」を強いるシステム、これによって一方には過剰な富が蓄積し、他方には貧困や困窮が蓄積し、この格差が拡大再生産される世界経済のメカニズム、これを「構造的暴力( strukuturelle Gewalt / structural violence )」と呼んだ。
  このような仕組みまで、〈資本の支配〉の論理を媒介させながら、説明できるような射程範囲の商品・貨幣論を、どうやって組み立てるか。というよりも、マルクスの抽象的な商品・価値論から、今見たような「構造的暴力」の交換システムにまで進むことができるような〈資本の権力の理論〉をどのようにして組み立てるか。それが、現代において《資本》を読み解く者に課された課題ではなかろうか。

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