――マルクスの解体と再構築――
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ローザの論理の組み立ては非常に面白い。
資本蓄積の危機から、資本主義的生産様式と非・前資本主義的生産形態(それらが支配的な地域)との連結関係の必然性を導き出した。じつに巧妙な理論構成である。
だが、実際の歴史過程を直視すると、資本蓄積の危機が生じたから非・前資本主義的生産形態――西ヨーロッパ外の地域――が再生産体系に組み込まれたのではない。また、マルクスやローザが理論的に想定したような利潤の過少実現とか利潤率の低下傾向は、歴史的事実としては検証できない。あくまで、抽象的・論理的にのみ想定できる傾向、つまりはシミュレイション理論でしかない。
むしろ、西ヨーロッパ(中核地域)では、世界貿易・金融を含めた総資本の利潤は理論的推定値よりもずっと大きかった。利潤率の傾向的低落は検証されていない。
その理由を検討するために、ローザの理論は「転倒」しているが、非常に参考になる。つまり、ヨーロッパ域内と非ヨーロッパ世界を含めて非・非資本主義的生産形態――ことに植民地や属領――を支配し暴力的に収奪・搾取したことによって、経済的剰余がヨーロッパの資本・金融循環に流入して、実際に全体としての資本経営が生産した以上の剰余価値がヨーロッパ市場を循環したことは、間違いない。資本蓄積の加速要因にはなったのだ。
だが、これをどのように理論化するかが問題になる。
利潤率の低下傾向が生じなかったのは、急速で持続的な技術開発による相対的剰余価値生産が進展して、著しい生産財=不変資本の価値低下が起きたため、飛躍的な製造原価の低下が生じて利潤率がむしろ上昇したということ――しかも、それがインフレイション傾向のなかで生じたので、価値低下にもかかわらず名目価格は上昇したことから、事態は複雑なのだが――は、すでに実証されている。とはいえ、それを加味しただけでは、欧米企業の膨張は説明し切れないようだ。やはり剰余価値の国際的移転が解明されなければならないということだ。
マルクスやローザのように、純粋な資本主義的生産様式を仮定して、その限界を導き出し、その限界=危機を克服するために〈資本の世界市場支配〉を導き出すことの意味は、どうなのだろう。
なるほど、「論理的必然性」を導出する「論理の遊び」としては、じつに洗練されていて見事だとは言える。純粋に経済学の枠内にとどまっているかぎりは、そういう論理構成が好ましいのかもしれない。
だが、その方法では、本来の(実在の歴史としての)「資本の本性」というものが、現実の〈資本の支配〉とは別のものとして規定されることになってしまう。
とはいえ、これは方法論をめぐる「好み」「嗜好」の問題でしかないと言われれば、それまでだ。
ただ、私としては、現実の歴史があるがままに〈資本概念〉を構成したいのだ。それは、資本概念のなかに政治や軍事・戦争などの要因を持ち込むことになる。
つまり、ヨーロッパで資本主義的生産形態が成長し、しだいに支配領域を拡張していく過程の前提条件として、また並行条件として、ヨーロッパ諸国家体系とヨーロッパ諸王権国家による世界航路の開拓や植民地形成、そして世界(遠距離)貿易などの仕組みが出現していったということを、率直に理論に取り込むということだ。
こういう立場に立つと、マルクスが《資本》での考察(を始める前)の序論として提起しやがてソ連で確立された「史的唯物論」の定式にもとづく歴史観=方法論を投げ捨てることになる。
その最たるものが、「経済的土台から政治的・イデオロギー的上部構造を導き出す」という発想だ。あるいは、本質的なものから派生的なものを導出するという方法だ。この方法は、ヘーゲルの方法を転倒させて、切り縮めた方法でしかない。
私の見方では、経済的再生産はそれ自体で理論的に完結させて説明できるような体系ではない。政治的・イデオロギー的仕組みは、上部構造でもなければ、経済的土台によって必然化されるものでもない。状況や局面によって、「経済的なもの」と「政治的・イデオロギー的なもの」との関係性は異なる。
とりわけ重視したいのは、ヨーロッパの歴史では、国家(諸国家体系)は、それ自体、経済的再生産において資本が支配的になっていく過程とは別の文脈で生成し始めたが、やがてこの両者は結びつき、相互に制約し合いながら、相互の形態・構造を変形させていくようになるという事情だ。
それゆえ、国家は経済的構造からの導出では説明できない要素・要因がきわめて多い。その機能や仕組みも、独特固有のダイナミズムを持ち、むしろ、そのことが〈資本の本性〉を変容させてしまうこともあった。
純粋な資本主義的生産様式の論理では、現実の〈資本の支配〉において決定的に重要な要因の多くが抜け落ちたままになってしまう。