――マルクスの解体と再構築――
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このテーマの第2回の記事で考察したように、マルクスの《資本》は、次のような二重の抽象化によって、すこぶる単純・純粋なモデルとして提示されていた。
@世界経済が単一の国民(国家)から成り立っている、
すなわち、世界経済の多数の国民国家への分割という政治的・軍事的環境を度外視していること。
Aあらゆる経済部面で資本主義的生産様式が確立され支配的になっていること、
すなわち、それ以外の生産様式・生産形態ないしは経営様式の存在を度外視していること。
こうして、諸国家への政治的・軍事的分割という仕組みがない単純な世界経済のなかで、資本主義的生産様式だけが存在するという、きわめて単純粗雑な分析モデルのなかで、〈資本の支配〉や資本蓄積が描き出されているのだ。
このような抽象次元で構成された〈資本概念〉では、現実に存在してきた近代ブルジョワ社会を分析する方法にはなりえない。この次元でマルクスの《資本》が正しいとか誤っているとか云々しても始まらない。
実際の歴史のなかでは、
@世界経済のなかに複数の国家が存在するという政治的・軍事的構造
と、
A多様な生産様式・生産形態の並存状態のなかで資本主義的生産様式の支配が歴史的に打ち立てられていく過程
とは不可分に絡み合っている。
そうなると、〈資本の支配〉の形成の過程を、世界市場的連関のなかに位置づけながら、ヨーロッパ諸国家体系の形成の歴史と連関させて考察しなければならない。
歴史的に動態的に〈資本の支配〉の出現・確立の過程を認識するためには、中世後期からのヨーロッパ全体の社会変動を分析しなければならない。それはまた、多様な経済形態・生産様式が変容しながら、〈資本の支配〉の権力構造の仕組みに組み込まれていく過程を考察することになる。
中世後期からのヨーロッパの社会変動――〈資本の支配〉が形成されていく過程――は、政治的・軍事的環境としては、王政を主要な形態とする多数の政治体=国家の併存状態(諸国家体系)を生み出した。他方では、このような諸王権と癒合した商業資本の活動は、大航海時代を切り開き、大西洋・アメリカ大陸、アフリカ、アジアなどの諸地域へのヨーロッパの権力の拡張をもたらし、諸王権と資本の権力闘争の舞台は世界市場となっていった。
このようなパラダイムを最初に理論的に提示したのは、マルクスとエンゲルスとの共著《共産主義党のマニフェスト(共産党宣言)》だった。つまり、ヨーロッパの近代的レジームと〈資本の支配〉とを、世界市場的文脈と結びつけて認識する方法論が、そこで、はじめて定式化されたわけだ。
ただし、私たちは、《マニフェスト》の叙述のなかから、世界経済的文脈のなかに位置づけて近代ヨーロッパの出現の歴史を把握する視点を、政治的・扇動的言説から切り離して、方法論的に彫琢・研磨していかなければならない。
というのは、現在の私たちは、《マニフェスト》の綱領的提示のうち、次のように、政治的・扇動的言説の誤謬を知っているからだ。
@国民国家的規模での「革命」では、「人類の社会的解放」としての社会主義は生まれないこと
A「プロレタリアートのディクタトゥーラ」は、歴史的にはありえないこと
このスローガンで樹立されたのは、おぞましい党と国家の官僚権力が支配する全体主義でしかなかった
B所有の国家化(国有化)は、階級敵対や格差を解消しないばかりか、むしろ特殊な階級格差と不均衡を増幅・固定したこと
C以上、要するに、「社会主義革命」の実現可能性は、これまでのところ、どこにも見いだせていないこと
残念ながら、現在の私たちが展望できることは、せいぜい、あまりに破壊的で凶暴な資本蓄積のメカニズムをできる限り抑制する仕組み(や企業の行動スタイル)を案出することくらいしかないのだ。「しかない」のだが、それは、人類が生き延びるためには、きわめて重要な課題だ。
さて、ヨーロッパ中世後期から近代までの社会変動の指標としては、
@地中海世界では11世紀に始まり、そのほかのヨーロッパ地域では13世紀に始まった世界貿易ネットワークの形成過程。
そこでは、この貿易ネットワークの組織化中心としての商業諸都市や商人団体の権力の拡張が目を引く。都市は政治的・軍事的単位(政治体)として自立化し、周囲の諸地方を排他的な支配圏域として統合していく。
A以上の過程と連動していたのだが、領主たちの熾烈な生き残り競争の展開。
そのなかから、有力な君侯たちが領域国家(王権国家)を形成し始める。諸王権は域内の商業資本や都市と強力な政治的・軍事的・財政的同盟を組織化していく。
Bヨーロッパの西端、イベリア半島の有力諸王権によって開始された大航海時代。
大西洋、アフリカ沿岸部、アメリカ大陸、インド洋を舞台とする冒険航海と航路の開拓、征服活動と貿易網の建設。
というようなものが主要な事態だ。
《共産党宣言》は、こうした諸要素を、見事な歴史物語に織り上げて提示してくれる。だが、この当時としてはすばらしく卓越した視座は、このマニフェストの強い政治臭というか戦闘性のために、学術としての政治経済学の方法論のなかには取り入れられなかった(マルクス派のごく一部を除いて)。そもそも、マルクス派の内部でも、世界経済的論脈はほとんど重視されなかった。