この記事の目次

はじめに

1 経済学批判体系の構想

イデオロギー批判の難しさ

《資本》の出版編集の来歴

考察の方法

経済学批判の全体構想

2《資本》に叙述され…

商品・貨幣論は世界市場を…

価値の源泉としての労働

認識の方法論の問題

権力構造としての価値法則

3〈資本の生産過程〉の仮定

純粋培養された資本主義

マルクスが目にした現実

〈資本の支配〉と生産過程

ソヴィエト・マルクシズム

重層的な〈資本の支配〉

4「資本の生産過程」の論理

剰余価値生産の2形態

絶対的剰余価値の生産

相対的剰余価値の生産

技術革新と産業革命

5 価値としての資本の運動

可変資本と不変資本…

価値形成と価値移転

生産管理の指標…原価計算

生産管理の指標…原価計算

7 労働価値説の理論史

国家と貿易

8「純粋培養」モデル…

共産党宣言

…〈世界市場的連関〉

「独占資本…金融資本」…

ローザ・ルクセンブルク

…マルクスの限界

9 世界市場的文脈で…

世界経済のヘゲモニー

世界市場とヘゲモニーの歴史

地中海世界経済

長い過渡期

考察視座の再確認

ヨーロッパ諸国家体系…

長い過渡期

  ところが、ジェーノヴァは北イタリアの本土からの資本と権力基盤の離脱を試みたように見える。ジェーノヴァの有力商人層は商品貿易からしだいに資本を引き上げていき、エスパーニャ王室やフランス王室、ポルトゥガル王室、イングランド王室、あるいは有力貴族層への金融に特化していく。
  当時、王室財政への融資は、商人への王権からの特権=特許状の付与と引き換えにおこなわれた政治的ゲイムだった。たとえば、ある税目の課税権や徴収権とか、特権的貿易への参加・出資権、さらにはアメリカ大陸との貿易収益における王室の取り分を担保抵当にして、巨額の資金を王権や君侯に貸し出していた。とりわけアメリカ大陸植民地から大量の金銀財宝が送られてくるエスパーニャ王室を相手にジェーノヴァの金融商人たちは巨額の貸付をおこなっていた。
  当時の王権の財政は急速に膨張していた。ヨーロッパでの覇権争いやら、域内での貴族の反乱への軍事活動やら、植民地建設などのために、毎年、膨大な出費を強いられていた。しかも、王室財政の顧問官や会計官吏は、収支のバランスを勘案することもなければ、税収のきめ細かな管理に慎重に目配りする心性、行動スタイルがなかった。商業都市が支配するネーデルラント連邦共和国を除いて。
  要するに、王室金融は恐ろしくバブリーな世界だった。

  エスパーニャ王室やフランス王室は、15世紀から17世紀まで、王が代わるたびに「支払停止令」――これは王室の自己破産の申し立てに等しい――を出していた。そのたびに、財政破綻に巻き込まれて借款=債権の回収に失敗した多くの金融商人家門が没落していった。
  エスパーニャ王権は、イタリアやネーデルラントでの戦争が長引くたびに財政破綻に陥った。フランス王権も似たようなものだった。王権は、停戦で一息つくごとに、次の戦役までの数年間に「正常な課税収入」を回復したり、議会に賦課金や課税を納得させて財政収入を増やした。だが、王室財政が潤うのは一瞬で、収入の大半は過去の膨大な借金の返済に回され、こうしてようやく次の借入条件を整えることができた。リスク見込みの借款の恐ろしく高い利率を引き下げてもらうこともあった。

  16世紀はじめから、ネーデルラントがヨーロッパ世界経済でのヘゲモニーを掌握する、この世紀の後半までのあいだに、半世紀以上の長い過渡期がある。
  この時期に、「本国」のレジームは混乱していたにもかかわらず、バブリーな王室金融で富と権力を急膨張させたジェーノヴァ商業資本が、ヨーロッパ世界市場で最優位を占めた。
  なにしろ、王室金融にはさまざまな特権が見返りに付くうえに、目をむくような高利の金融で、収益率はほかの実物貿易や一般商人相手の手堅い金融とは比べ物にならないくらい大きかった。またたくまに、ジェーノヴァの金融商人は巨利を蓄えて、ヨーロッパ市場をわがもの顔にのし歩くようになった。ただし、エスパーニャ王室の権力が傾くまでは。

◆考察視座の再確認◆

  さて、ここまでは、地中海世界における都市で高度に発達した資本家的生産様式とその政治的環境を考察してきた。
  そして、次にはいよいよ、本源的蓄積の分析においてマルクスが「全地球を舞台とするヨーロッパ諸国民のあいだの通商戦争」と呼んだ、生成しつつある世界経済におけるヘゲモニー争奪戦、世界的規模での権力闘争を追跡することになる。

  ……全地球を舞台とするヨーロッパ諸国民のあいだの貿易戦争……それはエスパーニャからのネーデルラント(諸地方)の離脱によって開始され、イングランドの反ジャコバン戦争で巨大な範囲に広がり、中国に対する阿片戦争で今なお続いている。
  本源的蓄積のいろいろな契機は、いまや、多かれ少なかれ時間的順序をなして、ことにエスパーニャ、ポルトゥガル、ネーデルラント、フランス、イングランドのあいだに振り分けられている。イングランドでは、これらの契機は、17世紀末に植民地制度、国債制度、近代的租税制度、保護貿易制度として体系的にまとめあげられる。

というようにマルクスが概観している問題群である。歴史の俯瞰図としてはあまりにも見事な描写だ。今から150年も前に、ヨーロッパ諸国家における資本蓄積の背景にこのような文脈を位置づけるあたり、やはりマルクスやエンゲルスは天才というほかない。
  ただし、彼らはここで直観的な洞察を示しているだけで、問題群の分析をしているわけではない。だから、概観はかなり粗雑である。

  16世紀後半から始まるネーデルラントのエスパーニャ(ハプスブルク王朝)からの離脱=独立闘争は、17世紀の初めにあらかた決着がついた。そののち1648年のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約においてネーデルラントの独立はヨーロッパ諸国家間の公式的協約として承認される。ドイツ=中央ヨーロッパでの宗教紛争に介入して権威を回復しようと企図したハプスブルク王朝の、ヨーロッパ全域を巻き込んだ冒険がついに完全に挫折した局面だ。
  それにしても、ヨーロッパ世界経済は多数の諸国家に政治的=法的・軍事的に分割されていた。つまり諸国家体系 Staatensystem が世界市場の政治的・軍事的編成様式となった。そうなると、1地域での有力諸国家の戦争や勢力争いは、互いに覇を争い合っているヨーロッパ全域の有力諸国家を巻き込むことになる。資本の世界市場運動=世界市場競争は、このような政治的・軍事的構造を媒介させたものとなる。

  このときから、独特の――17世紀中の2度の市民革命をつうじて――国民国家を世界ではじめて構築したイングランドが、今度はネーデルラントを急追しようとしてそのヘゲモニーに執拗な挑戦を仕かけることになった。そして、およそ1世紀後にイングランドは世界の頂点に登りつめる。すると、今度はフランス王国がイングランドのヨーロッパにおける優越に挑戦を企てる。争いは長引き、ブリテンがヨーロッパの政治的・軍事的環境のなかで安定した最優位を獲得するまでには、最優位に昇りつめてから半世紀以上もかかった。
  その間には、実に多くの歴史的変動が横たわっている。この変動過程が現実の支配権力――いまや多数の諸国家に分割された資本グループとなっている――としての〈資本〉と資本蓄積に多くの独特の刻印(性格付け)を与えることになった。

  そこで、この過程をいくつかの時期に区分して分析しておこう。
  時期区分は、

16世紀後半から17世紀半ばまで……ネーデルラント地方=ユトレヒト同盟がハプスブルク王権の集権化に抵抗して独立闘争を繰り広げて、政治的・軍事的独立を達成する時期: ネーデルラント連邦はヨーロッパ世界経済でのヘゲモニーを獲得する。
17世紀後半から19世紀半ばまで……ネーデルラントとの闘争を経てイングランドがヘゲモニーを掌握し、その権力装置を世界的規模で構築する時期。そして、貿易・工業生産においてヨーロッパ諸国民の激しい追い上げ、闘争が試みられる。

  だが、その考察の前に、ヨーロッパ世界貿易の経済的ならびに政治的・軍事的環境を見ておこう。

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