この記事の目次

はじめに

1 経済学批判体系の構想

イデオロギー批判の難しさ

《資本》の出版編集の来歴

考察の方法

経済学批判の全体構想

2《資本》に叙述され…

商品・貨幣論は世界市場を…

価値の源泉としての労働

認識の方法論の問題

権力構造としての価値法則

3〈資本の生産過程〉の仮定

純粋培養された資本主義

マルクスが目にした現実

〈資本の支配〉と生産過程

ソヴィエト・マルクシズム

重層的な〈資本の支配〉

4「資本の生産過程」の論理

剰余価値生産の2形態

絶対的剰余価値の生産

相対的剰余価値の生産

技術革新と産業革命

5 価値としての資本の運動

可変資本と不変資本…

価値形成と価値移転

生産管理の指標…原価計算

生産管理の指標…原価計算

7 労働価値説の理論史

国家と貿易

8「純粋培養」モデル…

共産党宣言

…〈世界市場的連関〉

「独占資本…金融資本」…

ローザ・ルクセンブルク

…マルクスの限界

9 世界市場的文脈で…

世界経済のヘゲモニー

世界市場とヘゲモニーの歴史

地中海世界経済

長い過渡期

考察視座の再確認

ヨーロッパ諸国家体系…

■国家と貿易■

  ここで、問題になるのは、このような経済的な物質代謝循環の均衡の仕組みが、いったいどのような単位=規模でひとまとまりになっているか、ということだ。
  これは、社会的分業体系が1つの自立的全体として完結するのは、どの規模の単位でか、という問題だ。
  フィジオクラートは、ヨーロッパの各国家=王国という政治的=軍事的単位という規模で、ひとまず自己完結すると想定した。つまり、国家という政治体とは、経済的にも自己完結した自立的な全体=単位である、と。

  フランスという広大な王国なればこその発想だ。
  古くから世界貿易や世界金融のネットワークのなかで成長してきたイングランドやネーデルラントでは、生まれにくいイデオロギー=方法論だ。そして、数百もの政治体=軍事単位に分裂していたドイツ=中央ヨーロッパでも、やはり生まれにくい発想である。フランスは、長い間政治的分裂に苦しんでようやく絶対王政が樹立され、そののち激烈な市民革命が発生して「近代的国民」の思想を生み出した。ナショナルな単位で社会を見る発想は、フランス生まれと言えるかもしれない。

  では、フィジオクラートにとって外国貿易はどのような意味を持つのか。これについての意見は、フィジオクラートのあいだでも対立を含んでいた。とはいえ、主流派は、国内的な再生産の補完物(数学でいう剰余系)でしかなかった。
  だが、考察のレヴェルがかなり抽象的だったので、この問題はあまり真剣には扱われなかった。

  近代ヨーロッパの社会科学で「社会」という場合、いったいどのような地理的範囲、どのような人間集合を想定してのことか、という問題は、20世紀の後半に〈世界システム理論〉が出現するまで、正面から検討されることはなかった。
  18世紀からヨーロッパ(ことにドイツ、オーストリアやイタリアなどのように政治的に分裂した地域)では、支配階級や統治階級、知識階級のあいだで、ブリテンやフランスのような強力な王権国家(ネイションという枠組みの萌芽)をモデルとして国家=国民を構築しようという課題が意識されていった。そして、2大強国をモデルとして、自立的な政治体として認識しようとする方法論が形成されていった。
  無意識のうちに、認識すべきは「社会」ではなく、政治体(コモンウェルス、政治共同体あるいは軍事単位)の内部構造や仕組みということになった。というよりも、「自立的単位としての社会」イコール「国家」という等式が、まったくの無前提のまま、政治経済学とか社会思想や政治思想のなかに持ち込まれたのだ。

  実際のヨーロッパの歴史では、緩やかにまとまっていた文明空間としてのヨーロッパが、中世後期からの社会変動をつうじて世界貿易圏=世界経済として形成されていった。そのなかで各地の君侯権力や諸都市が対抗し合っていた。やがて、北西ヨーロッパの有力諸都市=商業資本団体と有力君侯とが同盟して王権という権力ブロックをつくり上げ、これが絶対王政を主要な形態とする国民国家(の初期局面)となっていった。
  この独特の国家は、域外の権力と競争・対抗しながら、内部的な統合(国民的統合=国民形成)を進めながら、世界市場での優位をめぐって争った。つまりは、世界市場のなかでの諸王権・諸都市のあいだの対抗関係のなかから国民国家は生まれたのだ。


  王権国家、そして初期ブルジョワ国家は、域内の住民に「外国」=域外の住民集合との対抗を意識させる言語文化やイデオロギーをつくり出しながら、自分たちを1つの国民として意識させ結集させるメカニズムを生み出していった。制度的には、国境の体系や関税障壁、保護貿易政策、産業育成政策(富国強兵)によって、国境の内部の経済組織や経済団体の政治的凝集を組織していった。
  要するに、ヨーロッパ世界市場という文脈のなかで、国家は生み出され国民が形成されたのだ。
  こうして、ヨーロッパ世界市場は、ブローデルの言う「都市支配型経済」から「国家支配型経済」の集合へと構造転換していったわけだ。

  ところが、およそ自覚的な政治経済学が生まれたのは、このような国家という形態での国民的凝集が形成されていく状況のなかでだった。そこで、フィジオクラートのように、国家をつうじて組織化された障壁=国境に取り囲まれ(断片化され)た社会空間を、1つの自立的な社会として表象するようになった。
  そして、国家の行財政装置が成長していくにつれて、域内経済は中央政府による課税基盤=担税基盤として把握され、統計数値的に計測されるようになっていく。国民的規模での生産額、販売額、そして輸出額、輸入額として。

  こうして、学問のなかでは、あたかも「国民経済」は「自明の存在」であるかのように扱われるようになった。巨大なフィクションの体系ができ上がっていった。国民経済は自己完結的で自立的なシステム=実体であるかのように描き出されるようになった。
  国民経済は、国民国家という政治的現象によって媒介されてはじめて出現するものなのに、逆に国家の前提、世界経済の前提になってしまった。国民経済を単位=出発点と位置づけて、国家や世界経済を認識するという転倒が構造化された。
  ヨーロッパの世界市場への転換⇒その内部での多数の権力ブロックの対抗⇒国民国家⇒国民経済という、歴史の論理はすっかり覆されてしまった。世界経済や世界貿易は、スピルオーヴァー・プロブレム(国民経済からあふれ出たのちの問題)になってしまった。
  世界経済の内部での諸国家の関係は、「国際的問題」という用語で表示されるようになった。国際的、すなわち「インターナショナル」(inter-national)は、ネイション(nation)がまず(無批判・無前提に)存在して、しかるのちに、その相互関係(inter‐relation)として位置づけるというフィクションである。
  事実は逆である。世界的文脈のなかではじめて複数のネイションが相互に対抗しながら出現し、内部的結集・組織化・統合が展開するのだ。
  世界システム理論(世界)派は、このようなフィクシャスな方法論を「国際派」と呼び揶揄する。

  じつは、この問題は《資本》のなかでもたえず模索されているのだ。
  この模索や苦闘があるがゆえに、マルクスは、世界市場の内部での諸国家への政治的分割がない状態を想定して、ひとまず資本の経済的運動法則を描き出そうと試みたのだ。
  とすれば、私たちは、《多数の諸国家への世界経済の政治的・軍事的分割》というモメントを介在させて、資本蓄積や競争、貿易・金融などの諸事象を分析しなければならない。

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