この記事の目次

はじめに

1 経済学批判体系の構想

イデオロギー批判の難しさ

《資本》の出版編集の来歴

考察の方法

経済学批判の全体構想

2《資本》に叙述され…

商品・貨幣論は世界市場を…

価値の源泉としての労働

認識の方法論の問題

権力構造としての価値法則

3〈資本の生産過程〉の仮定

純粋培養された資本主義

マルクスが目にした現実

〈資本の支配〉と生産過程

ソヴィエト・マルクシズム

重層的な〈資本の支配〉

4「資本の生産過程」の論理

剰余価値生産の2形態

絶対的剰余価値の生産

相対的剰余価値の生産

技術革新と産業革命

5 価値としての資本の運動

可変資本と不変資本…

価値形成と価値移転

生産管理の指標…原価計算

生産管理の指標…原価計算

7 労働価値説の理論史

国家と貿易

8「純粋培養」モデル…

共産党宣言

…〈世界市場的連関〉

「独占資本…金融資本」…

ローザ・ルクセンブルク

…マルクスの限界

9 世界市場的文脈で…

世界経済のヘゲモニー

世界市場とヘゲモニーの歴史

地中海世界経済

長い過渡期

考察視座の再確認

ヨーロッパ諸国家体系…

■ヨーロッパ諸国家体系と商業資本の蓄積■

  レコンキスタ Reconquista をつうじてイベリア半島ではいくつかの強力な王権が形成された。15世紀後半に最有力になったのが、レオン・イ・カスティーリャ王権(以下、カスティーリャと呼ぶ)。一方、半島の東部で隆盛したのがアラゴン(カタルーニャ侯国と連合した)王権だった。15世紀末、この2大王権は、カスティーリャの女王イサベルとアラゴンの王子フェリーペとの婚姻によってエスパーニャ連合王国に編合された。やがて、アラゴン王フェリーペはイサベルとともにエスパーニャを共同統治する(同君連合)。
  やがて、エスパーニャ王室はオーストリア王室ハプスブルク家と政略結婚によって同盟し、イサベルとフェリーペの孫、カルロスがエスパーニャ王位を継承した。16世紀のはじめ、カルロスは、祖父のオーストリア王にして神聖ローマ帝国の皇帝だったマクシミリアンから、ヨーロッパ各地にある支配地や所領を引き継いだ。
  こうして、エスパーニャ王位を獲得したハプスブルク家は、イベリアに加えて、ネーデルラント、ブラバント、ブルゴーニュ、フランシュ=コンテ、オーストリア、イタリアだけでなくシチリア、サルデーニャ、マリョルカなどの地中海諸島を統治することになった。そのうえ、新世界アメリカ大陸やカリブ海のあまたの植民地をも統治することになった。

  だが、これらの諸地方は1つの政治体をなしているわけではなかった。
  カルロスは、ネーデルラントではフランデルン伯やホラント伯として君臨するというように、それぞれの支配地や所領の統治にそれぞれ個別の君主・領主として臨んでいたにすぎない。それらの諸地方はそれぞれ固有の法を持ち、独立の政治体・軍事単位として振る舞っていた。

  そして、それらの諸地方がカルロスに臣従するのは、カルロスがそれぞれの地方の固有の法を尊重する(在地の権力者の地位に手を触れず妥協する)限りでのことで、この条件を破れば反乱を起こす権利が正当なものとして認められていた。
  しかも、それぞれの支配地や領地のなかには、たとえばブルゴーニュやフランシュ=コンテでは、カルロスと敵対するフランス王やらザクセン侯やらに臣従する領主の支配地や所領が数え切れないくらい数多く割り込み、まだら模様のように散在していた。
  なにしろ、国境によって政治体の領土を一元的に画定するという仕組みがなく、そういう観念もなかった時代なのだ。国境システムもまだなかったので、支配地の境界は権力関係が曖昧な辺境によって縁取りされていた。

  それゆえ、カルロスの広大な統治圏域を「ハプスブルク帝国」と呼ぶことがあるが、それは全体の統合がとれない「つぎはぎの帝国」でしかなかった。「帝国」の版図内部ではつねにどこかしらで反乱や戦乱が起きていた。

  それにしてもハプスブルク王朝の家門的権力は、こうしてフランス王国(外形的版図)をぐるりと取り囲んでいた。フランスではヴァロア王権が、分立化傾向の強い諸地方(貴族所領や都市)に対する統制を強化しながら、統合を進めようとしていた。だが、諸地方の分立傾向や分裂は容易に克服できなかった。
  にもかかわらず、ヴァロワ王権はハプスブルク王朝との対抗を強く意識しながら、イタリアやフランデルン・ネーデルラント方面に派兵して軍事的に敵対する。戦争と軍備のために王室財政は過酷な負担を強いられた。
  長らくヨーロッパ大陸の植民地か属領のような地位にあったイングランドも、ロンドンを中心とする商業資本の成長と結集 Merchant Adventurers を背景に、これと緊密に結びついて王権が成長し集権化を開始した。王権は域内の商業資本の要求を受けて、羊毛原料産地からの原毛輸出と毛織物生産(粗織布製造)をイタリアやドイツ・ハンザなど域外商業資本への従属から離脱させる政策的試みを持続的に打ち出していく。
  一方、ゲルマニア・中央ヨーロッパでは、神聖ローマ帝国という地域的な政治的・軍事的システムを織りなしながら、数百にものぼる数の中小規模の領邦=君侯権力が分立・対抗し合っていた。強力な王権が出現して、ドイツを国民的規模で統合しようと試みるのは、まだ数世紀先だった。

  いずれにせよ、ヨーロッパでは多数の王権や君侯・領主たちが領域国家の形成をめざして互いに対抗し合うシステムができ上がってきた。王や君主たちは、ヨーロッパの辺境での政治的・軍事的状況の変化に対しても、自己の優位の確保や劣位の克服のため、あるいは敵対者の増長を回避するために、移り気な同盟を取り結んだり対抗したりしていた。

  この時代の王権や君侯領主は、その財政構造の特質から見ると、商業資本が獲得した利潤に寄生しその最分配による収入が決定的な比率を占めていた。それゆえ、商業資本――その意味での資本蓄積――の人格的ないし政治的表現形態だったというべきだろう。

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