――マルクスの解体と再構築――
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以上のような原価の割り当てを基礎として、原価計算は、生産工程の管理指標ないし管理手段として機能する。進捗度や生産効率、品質を測定し管理する手段となるのだ。
これまでに見た方法で、各種の製品(A、B、C、D)の製品群としての原価が把握されたとする。この製品群原価を、製品の目標生産量(個数)で割れば、個別製品の原価(目標)が出る。
あるいは、生産計画における生産日数とか延べ時間で割れば、1日当たり、1時間当たりの発生原価(目標)が産出される。
他方で、実際の工程で発生した原価を測定、計算する。
実際の製造ラインの稼働時間の長さ(単位時間当たりの減価償却費とか労務費は事前に計算されているものとする)、実際に使用消費した原材料の量=価格を集計すれば、実際に発生した原価が算定される。
以上の2つを比較対照してみれば、目標とする生産額(原価発生額)と実際とを比較検討できる。
マルクスの視点からは、単位時間当たりの生産価値は、単位時間当たりの価値移転の額と価値形成の額との合計である。これは、発生した原価(価値移転分と賃金)と剰余価値の合計ということになる。ここで、理論上は剰余価値は利潤額である。
もとより、実際の生産額は、商品としての品質検査に合格して必要な使用価値を備えた製品の生産額のことである。品質検査に合格しなかった製品は、商品価値がない(あるいは商品価値のうちの何割かの価値しか持たない)ものとされる。つまりは「不良品」「仕損品」である。
したがって、市場に出荷できる「合格品」の生産額について、目標額との比較して進捗度や効率を測定することになる。この場合、全生産品量に対する「合格品」の比率を、一般に「歩留率」と呼ぶ。
通常、企業は目標とする歩留率によって、工程を管理する。
ところで、「労働価値説」は、じつはマルクスの発明(オリジナル)にかかるものではない。商品=生産物の価値(多数の商品の交換比率を規定する尺度)が、生産に投入された人間労働の量によって規定される、という理論を定式化したのは、フィジオクラート
Physiokraten / physiocrats だった。アダム・スミスやリカードウなど近代古典派の政治経済学がそれを受け継いだ。社会に生産物として政治経済的な価値をもたらすのは人間の労働や勤勉 industry だというのが、彼らの研究の起点だったのだ。
マルクスは、そういう近代古典派経済学を継承したのだ。近年、労働価値説の創始者がマルクスだなどと平気で誤った見解をマスメディアで表明する学者やエコノミストがいるが、彼らは初歩的な知識すらない勉強不足の輩でしかない。
フィジオクラートは、日本語で「重農学派」と訳されている。今から思えば、これが「噴飯もの」であることは言うまでもないが、訳者はかなり努力・苦労したに違いない。
「フィジオ」とは「フィジカル」の原語であって、もともとは自然物質の性質や仕組みを意味する用語だ。 Physiokratie とは自然の力学の作用を意味し、ここでは、とくに「生物の仕組み」や「生理学の法則」を意味する。
近代フランスのフィジオクラートたちは、ヨーロッパの諸王国(=国家によって地理的に境界区分された社会)を1つの生物ないし有機体として位置づけて、その年々の物質的=経済的再生産の仕組みを、あたかも生物の身体組織の生存=再生産を分析するように、把握し法則的に認識しようとした。
彼らは社会の富の源泉は土地であって、土地に根差した生産活動としての農業こそ社会全体の富の循環の起点であると見たのだ。この文脈では、フィジオクラートは「社会生理学派」「経済生理学派」「自然経済学派」とでも訳すべきではないか。
さて、その方法論の核心は、
@社会という有機体の再生産とは、さまざまな生産部門に分割された人口の全体としての再生産である。つまりは、特定の社会的分業の体系の再生産である。
Aそれゆえ、各部門の人口の再生産に必要な物質(食糧などの消費手段、生産手段)が生産され、分配される仕組みが存在する。
Bそれは、生物の新陳代謝のような物質(エネルギー)代謝の連鎖=体系をなしている。この循環運動は、土地に対する人間の働きかけ、つまり農業労働が出発点となる。
Cしたがって、その社会の人口が必要とするさまざまな消費財や生産財の生産のために、あれこれの生産部門にしかるべき比率で、均衡的に、労働(生産者=人口)と資源が配分されなければならない。この均衡が崩れると、特定生産物の過剰生産や逼迫・不足・欠乏が生じ、再生産の危機が発生する。
というようなポイントとなる。
つまり、マルクスの経済危機(恐慌)論の基本的な要素がだいたい出揃っているわけだ。
というわけで、さきほど個別資本経営の視点からは、資本部分(価値)の回転、すなわち生産・流通(販売や分配)の一定期間の反復をつうじて、経営に投入された資源や資金が(利潤とともに)回収され、ふたたび生産に日投入されていく運動として、描きだされた経済的運動は、社会全体の仕組=経済的再生産の観点から見ると、〈循環〉として把握されることになる。資本循環、貨幣循環、物質循環として。
あれこれの部門の企業の資本の循環は、同じ部門やほかの諸部門の資本の循環と絡み合い、結びつき、より大きな循環に織り合わされていく。つまり、個々の企業のあいだの、そして諸部門のあいだの商品や貨幣のやり取りは、集合・集積して大規模な全体的循環を描き出すことになる。
無数の商品交換は貨幣のやり取りを随伴し、それは企業間、部門間での物質代謝の流れ=循環をつくり出す。
こうして見てくると、政治経済学にとって、生物の身体=個体あるいは、さらに巨大な自然界の食物連鎖(生態系)に相当するような、自立的な有機体としての社会の単位=全体とは何か、どのような次元で人間社会を観察するか、という問題に帰着する。つまり、世界市場の次元で社会体系を見るのか、国民国家次元か、それとも局地的・地方的次元か・・・と。