――マルクスの解体と再構築――
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とはいえ、そのような論理構成にもかかわらず、マルクスは当時(19世紀半ばのブリテン社会)の現実を素材として、そしてまた解明すべき対象として表象しながら、研究していた。
とりわけ、イングランド北西部から北東部(マンチェスターの工場地帯からヨークシャーにかけての地帯)とか、世界金融と世界貿易機能が集中するシティ・オヴ・ロンドンの現実を見ていたはずだ。
生産過程の分析では、綿工業地帯の工場での企業家の経営や過酷に搾取・抑圧された賃金労働者階級、彼らの貧困や憤懣や反抗や闘争を取り上げている。熾烈で悲惨な階級闘争は、ブルジョワ民主主義という資本主義の美しい仮面を剥ぎ取る。そして、まさに綿製品製造業こそが、当時のブリテンの資本蓄積の基軸であると想定していたに違いない。
だが、実証経済史の研究では、当時のブリテンの資本蓄積の基軸は綿工業ではなかったことが解明されている。ブリテンでは、すでに19世紀初頭に、綿工業はすっかり工業部門の従属的な周縁になっていた。工業の主力は、とっくに機械・プラント製造――鉄道・機関車・鉄鋼、紡績機・織機や造船、港湾建設プラントなど――に移っていた。
生産財=生産手段の生産部門が消費財生産部門よりも急速に成長拡大するという傾向は、《資本》の第2巻「資本の流通過程」の考察で、マルクス自身によって説明されている。ところが生産財生産部門の生産過程=階級闘争の分析はない。
いや、18世紀の後半ですら、綿工業は、綿工業部門の企業家は、世界貿易を支配する貿易商人=商業資本や世界金融を牛耳るシティの金融業者の支配のもとに組み込まれていた。綿工業の企業家たちは、世界貿易を組織する商業資本家たちの要求に沿って、同業者と過酷な生き残り競争を演じていた。買い手市場で買い叩かれ、製品価格は低迷していた。
しかも、限られた利潤率のもとで、金融業者からは厳しい取引条件を押し付けられて、工場建設とか紡績機や綿織機、動力機などの生産手段購入のための借入資金の返済に追われ、投資資金の回収のために必死になっていた。
たしかに綿工業部門は、世界市場での大衆消費財としての綿製品を供給していたから、総体として膨大な剰余価値を生み出してはいた。だが、世界貿易をめぐる資金循環やシティを中軸に組織された金融循環のなかで、剰余価値の大半は貿易業者や銀行家によって、貿易手数料や保険料、船賃あるいは借入融資の利子や返済金として刈り取られていた。綿工業の企業家には、それらの残りが、企業家利潤 Unternehmersprofit / Betriebsprofit として分配されたにすぎない。
マルクスが《資本》で描いたような生産過程での過酷な搾取や悲惨な児童労働、抑圧は、まさに、このような厳しい再生産条件=経営環境によってもたらされたのであった。
綿工業部門での労働者搾取がことのほか酷かったのは、世界市場的文脈において、またブリテンの経済=産業構造のなかでこの製造業部門が置かれていた特異な周縁的で従属的な地位によるものであった。
私は、当時の資本の蓄積欲求とか企業家の浅ましい欲望を糊塗しようとか、弁護しようとしているわけではない。
だが、綿工業という特殊な周縁化されていた産業によっては、資本の生産過程の典型的な本性を解明することは、きわめて不十分にしかできないだろうということは、了解できるだろう。
基軸的な資本の生産過程を描くためには、機関車製造とか造船業、製鉄業などの経営状況を分析すべきだった。もちろん、そこでも労働者は過酷な条件のもとで労働し、搾取されていたのだが。だが、このような先端技術部門では、技術ないし技能集約的で知識集約的な労働で、技術労働者たちは近代初頭以来の工房職人的な地位と気質――そしてギルド的な団結権を認められていた――の伝統を保有していた。のちの「労働貴族論」に俟つまでもなく、高い賃金と特権的地位を持つ職人的労働者だったのだ。
であるがゆえに、労働者の組織化や団結がいち早く始まったのだ。一定の労働条件や賃金水準を維持することは、技術労働者の能力や技能を維持して高い生産性を保つために、経営者にとっても必要だったのだ。それだけ、付加価値生産性の高い「特権的な工業部門」だったのだ。
本来であれば、このような基軸的な生産部門の生産過程と階級関係を分析するところまで、マルクスは考察を進めるべきだったが、できなかった。いや、しなかった。