経済的にはソ連は、ロンディ・コンツェルンへのダイアモンド原石売渡しを渋る余地はなかった。だが表向きには、冷戦構造の一方の極、「社会主義体制」の指導的国家であるという体面を崩すわけにもいかなかった。
そこでソ連外交筋は、国連の会議の場では、南アフリカのダイアモンド鉱山事故を西側資本による支配と搾取を原因とする人災として強く非難した。非難しなければ、ソ連の評判がそれこそ地に落ちかねないからだ。
ロンディ経営陣は、そういうソ連外交の表面を見て、次年度のダイアモンド原石の買取りに関するソ連との交渉の行方を心配していた。何しろ、ダイアモンド原石の供給能力では当時、南アフリカとソ連とを合わせると、世界全体の供給能力の大半を占めていたからで、その価格交渉の結果がダイアモンド原石の取引き価格の趨勢を決定するからだ。
この問題をめぐって役員会議が開かれた。ローラ・クィンもアシスタントスタッフとして参加した。というのも、ロンドン本社渉外部門の業績は、その多くがローラの手になる状況分析や交渉の下準備に負うところが大きかったからだ。
彼女は、はじめのうちはソ連は強硬姿勢に出てくるだろう。これまでどおりの価格での売渡しを拒否するだろうと読んでいた。ローラは買い取り価格の引上げを餌にして交渉のテイブルにつかせるしかない、と提案した。
しかし、実際の交渉に立ち会ってみて感触をつかむと、ソ連はおとなしくこれまでどおりの取引き条件を飲むしかあるまいとローラは予測して、役員会に強気の交渉を提案した。
彼女の読みは的中した。彼女は、あるいはソ連の金融財政上の苦境に関する情報を、ロンドンの金融筋からつかんだのかもしれない。
というのも、この頃から、じつはソ連計画経済の行き詰まりと財政破綻への傾向が現れ始めていたからだ。数年後には、ソ連は「従来の過度に硬直的な国家中央計画経済の運営スタイル」について深刻な自己批判をおこない、「市場メカニズムを導入する経済改革」を進めることになる――その資料は「リーベルマン論文」と呼ばれた――。
リーベルマン論文とは、1962年9月ソ連共産党機関紙『プラウダ』に掲載された経済学者エフセーイ・リーベルマンの論文《計画、利潤、および報奨金》のこと。この論文は、スターリンによって革命後から戦時(1930年代)にかけて構築され、その後も継続してきた国家中央官僚による硬直的な経済計画による経済運営の手直しを提起した。
経済活動を担う企業や個人の個別利益や利潤追求を一定程度認めたうえで、国家によって誘導される市場経済の導入を求めた。
こういう思想にもとづいて1960年代前半から70年代末まで「経済改革」が進められたが、中央計画の硬直性の是正には手がつけれらず失敗し、金融・経済危機が深刻化した。その後、アメリカのレイガノミクスの外圧を受けたりして結局、70年代末から以前のような硬直的な中央指令体制が復活強化され、90年代の破局まで行き着くことになった。⇒参考情報
■ソ連の横やり■
ところが、ロンディにとっては有利な展開になったが、ローラ・クィン個人にとっては、ダイア原石取引き交渉の成功が、とんでもない災難になった。というのは、こういう事情だった。
ソ連は外交の舞台で南アフリカとロンディ・コンツェルンを手厳しく批判した手前、裏で屈辱的な原石引渡契約に調印したことを世間の目からひた隠しにしなければならなくなった。
そこで、ロンディに、今回の交渉経過については、「守秘義務のある重役以外のクラスでは知る者がいないように配慮すること」という契約条件を取りつけた。つまりは、知りすぎたスタッフを会社外に排除しろと横やりを入れたのだ。
それで、ロンディ経営者ミルトン卿は、交渉に携わったスタッフで重役以外の者、つまりローラ・クィン女史を今年度限りで解雇する人事方針を決定した。ただし、この事実はミルトンをはじめとする数人の経営陣(と秘書)にしか知らされていなかった。
ミルトンとしては、契約期限の直前にローラに言い渡すつもりだった。直前まで、この有能な女性の能力を利用するつもりだったようだ。