階級格差が身分格差と言えるほどにまで強固な秩序として打ち固められているブリテン社会では、一流会社の――貴族階層をなす――重役たちにとって、雑役係の人間は「無視の対象」でしかない。「蔑視の対象」にすらなりえないのだ。知覚や認知の水平線のはるか下に位置する人びと――the people far under the horizon ――にすぎない。
というわけで、ホッブズ氏が清掃や設備の保守点検のために重役室や執務室に出入りしても、そのこと自体をエリートの誰も気にとめない。
だから、ホッブズ氏がいても――彼がまるで人の言葉を解さない「虫けら」でもあるかのように――気にとめる風もなく、機密性の高い経営戦略や人事計画の話題を続ける。重要書類をホッブズ氏の目の前でゴミ箱に捨てる。もちろん、情報化社会の現在ではありえない。
たしかに、教育のない一般下層民衆のほとんどは、エリートたちの話を聞いても内容を理解できないし、まして情報を悪用しようという判断も働かないだろう。コックニーを話す人びとは、クイーンズ・イングリッシュで話される専門用語、業界用語を聞き取ることもできないのだろう。
しかし、ホッブズ氏はその高い知能や技術知識にもかかわらず、たまたま運悪く、雑役の仕事に甘んじてきたのだ。彼は、一流商社の経営実務について理解できたのだ。いや、理解できるからこそ、ある目的のために、ロンディの雑役係の仕事を続けてきたのだ。
その目的を遂行するうえで絶好のタイミングが訪れたのだ。ローラの解雇計画を聞き知ったことがきっかけだったのだ。
階級差別や女性差別が傲然とまかり通る企業社会で、存在を軽視され、能力や努力、誠意を平然と踏みにじられる立場の人びとを事件の主人公に据えた物語の状況設定が、ここに成り立ってくるわけだ。
階級格差社会の仕組みの冷酷さと盲点を巧みに突いた、物語のプロットである。
人事に関する書類を盗み見てロンディとの雇用関係が今期限りだということを知ったローラは、ハロルド・レイノルズが声をかけてくれた銀行への転職=引き抜きに応じることにした。銀行側の返事を聞くために、ハロルドからの夕食の誘いに応じた。
ところが、ハロルドが伝えた銀行側の返事は「ローラを受け入れることはできない」というものだった。
シティの一流銀行にとって、巨大な財務規模を誇るロンディは、取引きの歴史が70年以上におよぶ超優良顧客だった。とりわけ大事な大口取引先であって、それぞれの会社と経営陣どうしは、株式の相互持合いや家系的結合(婚姻など)や人脈によって緊密に結ばれたインナーサークルを形成しているのだ。
そういう結びつきをつうじてロンディは、ソ連との原石取引をめぐって秘密を守り、自分たちの利害を固守するために、取引き先企業にローラの転職を拒むように手を回したのだ。つまり、都合の悪い情報を握っているローラをとことん追いつめ、排斥・追放しようとしてきたのだ。
当時ロンディは、ロンドン本社だけでも年間売上は数億ポンド――現在の価値に置き換えると10兆円超――を超える巨大商社だった。その子会社・関連会社(支店群)は、世界中で1224社。
この世界的ネットワークは、世界的規模でのダイアモンドの貿易・海運や売上金額の送金や資金手当てをめぐる金融、あるいは外部との決済のための取引きなどをともなっている。その取引を金融的に仲介する手数料収入だけでも巨額になるだろう。
世界貿易や海運事業には、貿易取引にともなう決済取引きだけでなく、貿易保険や損害保険にともなう巨額の資金循環もともなっている。取引き銀行はこれらも媒介する。
そうなると、ロンディの事業にかかわる銀行や金融機関も膨大な数にのぼる。これらは経営ネットワーク組織だが、同時に経営中枢の利害や意向を伝達する権力装置でもある。
そうなると、ブリテンを中心に世界中の有力企業のうちざっと1万社(子会社含む)に、ロンディ・コンツェルンの意向が貫徹することになる。
会社の利害にかかわるとなれば、たった1人の女性管理職の転職をめぐってすら、これほどまでにブロックアウトを敷くことができるのだ。資本の権力の恐ろしさを見せつける場面である。
ローラ・クィンは、恋や結婚にも目をくれずに仕事に没頭して築いてきたものが、これほどたやすく壊れる事実に直面した。
余りに多くのものを失い追い詰められたローラは、ホッブズ氏が暗示した提案――おそらくダイアモンドの窃盗であることは察しがついた――に乗ってみることにした。
そのために、彼女はホッブズ氏の来歴や家庭について徹底的に調査した。背後関係の調査は、彼女の専門なのだから。
ある休日、ローラはロンドン下町のドッグレイス場――庶民が犬の競走をめぐるギャンブルをする場所――に出向いた。ホッブズ氏と会うためだ。ローラの接近をホッブズ氏は予想していたようだ。
ホッブズ氏はローラに計画を打ち明けた。彼の提案=計画はこうだった。