シンクレアは、事件の捜査探偵役としてロイズ保険協会の調査委員長フィンチ氏を引き連れてきた。この男は40代の長身で、貴族的な面立ちの事件や事故をめぐる調査・捜査の専門家である。おそらく固定のコミッションに加えて、成果に応じた報償を受けているのだろう。
この特権的な保険市場で調査委員長を務めているということは、オクスブリッジ出身で政府の秘密情報局SI(MI)勤務の経験があるのではないか。幅広い人脈、鋭い知性や推理力、行動力が売り物なのだろう。
ミルトンは、朝の始業前に主だったスタッフを集めて、シンクレアの提案で事件の調査・捜査をフィンチ氏に委ねる旨を告げた。民間調査機関に捜査を委ねるということは、ロンディの信用を保つために、なによりも、事件を警察(公の司直)に知られることなく、捜査し解決の方途を探らなければならない、ということだ。
■「南アフリカの星」■
ちょうどそこに、受託販売代理業者のボイル氏がやって来た。彼は宝石の所有者から委託され、手数料をもらってその販売をおこなう業界の専門家だ。
匿名の委託者(顧客)からダイアモンドの原石まるまる2トンをロンディに売り渡す交渉を依頼されたというのだ。代金は1億ポンド――当時の実質相場で約700億円ほどで、物価水準で調整すると、現代の物価で約1.2兆円くらいか。とてつもない金額だ。だが、ボイル自身も委託者の正体を知らなかった。
突然のあまりに奇妙な申し込みに一同が唖然としている最中に、会長秘書から、たった今ボイルに依頼主から電話が入っているという報告が来た。ボイルは電話を受けに席を外した。
ボイル氏が戻って来ると、手のひらに収まるような小さな包みを持っていた。たった今、配送便でロンディにいるボイル氏あてに届けられた小包だった。電話で顧客から小包の中身をめぐって指示を受けたようだ。
ミルトンは一同の前で包みを開いた。すると、560カラットの巨大な――オーヴァル・ブリリアント・カットの――ダイアモンドが出てきた。
それは当時、ロンディが保有を公表しているなかでは最大のダイアモンドだった。つまり、ボイル氏への委託主は、ロンディからダイア原石を盗み出した犯人で、そのデモンストレイションとして巨大なダイアモンドを送り付けたのだった。
このダイアモンドは金庫室のショウケイスのなかに飾られていたのだが、ホッブズ氏が原石といっしょに盗み出したのだ。
それは、「南アフリカの星」または「キンバリーの王」と呼ばれていた。キンバリーは地名だが、当時最有力のダイアモンド鉱山の名前でもあった。
これによって、ロンディ側は犯人がダイアモンド原石返還の「身代金」として1億ポンドを要求していることを思い知った。そして、1千万ポンドはするキンバリーを返してきたことから、犯人の動機は単純に「金銭そのもの」「金儲け」ではなく、何やら強い私怨あるいは政治的意図=目的があるということを知ることになった。
ボイル氏は、依頼人から1億円の代金支払いの期限を今から3日間であると言われていると告げ、送金先となる銀行口座のメモを置いて、帰っていった。
オーヴァル・ブリリアント・カットとは、ダイアモンドを上から見たときに楕円形をしているブリリアント・カット形状。正円の場合のカット方法がラウンド・ブリリアント・カットで、正円状に成形するために、原石から削り落とす体積が大きくなってしまう場合が多い。原石の形状によっては、カラット量を最大化するために円形ではなく楕円形にカットするのだ。
そこでカラット数を大きくするためにオーヴァル形状にすることがしばしばあるという。