翌朝、ローラは会社のゲイト近くで待っていた。ホッブズ氏が無事に出てくるのを祈りながら待つかのように。
まもなくホッブズ氏は夜勤シフトの退出手続きを済ませて出てきた。
ところが、ロビー係が走り出て来て、ホッブズ氏を呼びとめて会社の建物内に連れ戻した。とはいえ、ダイアモンド盗難の発覚というわけではないようだ。
ロビー近くの便器の排出管が詰まってしまったため、その不具合を直してもらうためだった。配管が詰まって便が滞留していたのだ。詰まりを直したホッブズ氏は、ふたたび会社を出ようとして、ローラとすれ違った。そのままホッブズ氏は歩き去っていった。
やがて、イートンが始業準備をするために金庫室の扉を開けた。その瞬間、大事件が発覚した。だが、「何事も秘密裏に」――つまり、経営陣が権力を保持するために情報の独占・秘匿すること――という鉄則を経営手法とするロンディである。事件は重役たち(と担当者管理職)だけに知らされた。
金庫室のダイアモンド原石はそっくり全部跡形もなく盗み出されていたのだ!
原石の総重量は2トン。容易に金庫室から運び出すのはもちろん、人目に触れずに会社外に持ち出すことができる量ではない。
しばらくして、ローラは重役たちから金庫室に呼ばれた。
彼女としては、ホッブズ氏から曖昧だが「保温ポット1杯分の原石を失敬する」というような話を聞いていたのではあった。しかし、金庫室からダイアモンドがそっくり全部消えていたのを見たときには、いつもは冷静沈着なローラも愕然とした。
重役連は「守秘義務」という言葉を楯にとって、彼女にこの事件の秘密を厳守するよう求めた。
ままもなく始業時間になった。経営陣は、出勤してきた原石選別係の全員に「本日は業務を休みにすると」言って帰宅させた。普段ならば、選別係は原石にさまざまな角度から光を照射し、含有鉱物による発色や色合い、屈折による結晶構造の分析などをおこなって鑑定・鑑別しながらそれぞれの原石のカット・研磨の方式を決めて、カット研磨工程への配分をおこなうはずだった。
選別鑑定はダイアモンドの精製研磨の工程の出発点をなす作業なのだが、作業の対象となるダイアモンド原石のすべてが失われた以上、いかなる作業も始めることはできない。つまり、ロンディは売上を得るための製品を生産することができなくなるとともに、巨額の資産を失ってしまったわけだ。致命的な経営資源を失ったのだ。
在庫のすべての原石が失われた今、ミルトンはロンディの経営危機を回避するために、ロイズ保険連合(保険協会)のアンダーライターであるシンクレアに連絡を取った。保険のアンダーライター underwriter とは、もし損害が生じた場合に損害額の補償を引き受けるという契約をした保険協会の会員のことだ。シンクレアはロンディの損害保証を引き受けている保険業者だった。
アンダーライターがいるということは、そのような損害が発生するリスクは確率的にきわめて小さいと判断して、まずは起きないであろうが「いざという危急事態」の損害補償を引き受けたということだ。まして、2トンものダイアモンド原石の盗難なんかは想像すらできない事態だった。
ロンディは収益率がきわめて高く、社内の盗難防止・監視警戒システムが堅固な企業である。つまりリスクはきわめて小さい。とはいえ、ロンディが支払う保険料は経営資産規模に応じて巨額であって、事故が生じない限りはアンダーライターは毎年、巨額の保険料収入を得ることができるのだ。
つまり、シンクレアはロンディ・コンツェルンと懇意な特殊な利害共有関係にあって――たとえば株式の持ち合いや重役の相互派遣などをしていて――、ロンディの巨額の商業利潤の分配過程に参加しているというわけだ。
したがって、ロンディのような特権的な巨大コンツェルンの経営上の損害リスクに関する補償保険についてアンダーライターとなること自体が、一種の保険業者としてはきわめて有力で特権的地位を占めているということを意味する。金持ち大企業と金持ち保険業者との利害の結託の仕組みが成り立っていて、インナーサークルの輪はこのようにして完結している――アウトサイダーに対して閉鎖されている――というわけだ。