ホッブズ氏は真夜中から明け方にかけて、ロンディ社の全室の清掃や設備の点検をおこなう。ほとんどの社員・従業員がいない深夜に社内にいるのだ。監視係や警備員はいるが、金庫室前には誰もいない。そもそも暗証番号を知らないと扉を開けることはできないから、監視警戒する必要がないわけだ。
だから、ホッブズ氏は、金庫室扉開錠の暗証番号を知ることができれば、難なくわずかなダイアモンドの盗み出しができる。
ミルトン卿は毎週、金庫室の扉の暗証番号を変更する。自分の心覚えのために暗証番号をメモした紙片を身近な場所に隠しておく習慣がある。ホッブズ氏はたまたま深夜の清掃中に、ミルトン卿が自分の執務室の机の引き出しの下に紙片を隠していることを知った。
ところが、最近、隠し場所を変更してしまった。たぶん、自宅のどこかだろう。仕事用の自室あるいは書斎の机のなかとか。その紙片を盗み見する方法はないだろうか、とホッブズは考えてみた。
そんなとき、近く、ミルトン卿の邸宅でパーティが催される予定があることを知った。管理職としてローラも招待されているという。そのローラは会社によって追いつめられているらしい。彼女の会社への忠誠心は失われつつあり、むしろ反感や不満が昂じているだろう。
たまたまローラに対する不当人事という事態を見てとったホッブズは、たぶん腹のなかで練り続けていたであろうダイアモンドの盗み出しを実行計画に具体化したのだ。そう、ホッブズは自らの復讐のためにダイアモンド窃盗を長年夢見ていたのだ。
それでホッブズは提案した。パーティの夜、ローラにミルトン卿の自室に忍び込んで暗証番号を手に入れてほしい、というのだ。
暗証番号を使って金庫室に入り込み、ダイアモンドを盗み出す。ただし、盗み出す分量は保温ポット1杯分(500ミリリットル)で、それくらいのダイアの量なら誰も気づかない。ローラとホッブズ氏の2人の分け前、合わせて200万ポンドくらいの価値の量なら。
知性と自己抑制に富むホッブズ氏なら、いかにもそういう計画を立てるだろうと思われた。……ローラは心が動いた。
■走り出した計画■
やがてパーティの夜が来た。ローラはシックに着飾ってミルトン邸を訪れた。
参加者にまんべんなくアルコールが回った頃合いを見計らって、ローラは邸の2階のミルトン卿の自室に忍び込んだ。そして、机や棚の奥を探ってみたが、暗証番号を記した紙片は見つからなかった。
そうこうするうちに、ミルトン卿が自室に入ってきた。
ローラは書棚の上の縁回廊に登って隠れた。天上の高い書斎に内装型の本棚を据え付けるという、富裕貴族の大邸宅ならではの建築構造だ。
ローラはオペラグラスを手にして潜んでいた。ミルトン卿が紙片なりを隠す場所を離れたところから盗み見するためだろう。
部屋に入ったミルトン卿は自室の金庫の開錠ダイアルを回し始めた。ローラは、ミルトン卿のダイアル操作をオペラグラスで観察して、ダイアルの番号を記憶した。ミルトンは、財務資料とともに、翌週(明日から)の会社の金庫室の暗証番号を記入したメモ紙片を金庫のなかにしまってから施錠した。
そして、ミルトンが自室から出ていくと、ローラはダイアルを回して金庫を開き、翌週の暗証番号を見て記憶した。
翌日、ローラは、自分のオフィスの暖房装置の不具合の修理を依頼するかのように振る舞って、地下の機械室にホッブズ氏を訪ねて暗証番号を記した紙片を渡した。そして、「計画を実行するときには、事前に計画の詳細を知らせると約束して」と言い渡した。