ところで一昨日、テムズ河畔で出会ったローラから「余生を全部刑務所で服役することになるわよ」と問い詰められたとき、ホッブズ氏はこう答えた。
「望むところです。目的かなうならば、服役が何世紀にわたっても喜んで受けましょう」と。
ホッブズ氏は少年時代からきわめて聡明だった。だが、古風で頑固な父親の言うとおりに、配管業を受け継いだ。だが、設計士の資格を取り、優秀なエンジニアとして名をなし始めたとき、若くして結婚した。
しかし、美しい妻は病気がちだった。妻の面倒を見るために、ホッブズ氏は配管設計業を辞めて、ロンディで低賃金の雑役係の仕事に就いた。それでも、妻の入院治療に備えて、新たに登場した「入院保険」に加入して、彼の収入にとってはきわめて高額の保険料を払い続けた。
やがて妻が癌にかかったことが判明した。早期なので、すぐに精密診断を受けて入院治療すれば、助かる可能性が高かった。ところが、保険業者は、その保険制度は、入院後一定期間経過しなければ補償額を支払わないものだと言い出した。それまでに、相当の金額の診療費がかかるにもかかわらず。
ホッブズ氏がどうにか診療費を用意できたときには、妻の癌は進行し、すっかり手遅れになっていた。
このときの「入院保険」を企画販売したのが、駆け出しの保険業者、シンクレアだった。同じような手口で、シンクレアは何千人もの保険加入者を騙し、高い保険料を受け取りながら、いざというときに補償金支払い渋るという手口で、酷い苦痛や苦悩を味あわせていた。
約款の文言表記を複雑曖昧にしておいて、いざ補償という段になると、加入者の側の無知や瑕疵を言い立てて、支払いを拒否して蓄財する。非合法すれすれの詐欺のような手口で、のし上がって財産を築いてきたのが、シンクレアだった。
妻の死で生きる気力を失いかけたホッブズだった。が、やがて、成り上がったシンクレアが、保険連合の大立て者としてロンディの損害保険の引受人となるかもしれないことを知った。それからずっと、ホッブズ氏は報復の機会を待った。
シンクレアの資産は肥え太り、ついにロンディの損害補償を全部1人でアンダーライトする立場になった。ホッブズ氏が復讐を成し遂げるときが来た。
ローラ・クィンを巻き込んだのは偶然だった。そこには、能力があって努力を惜しまない下積みの人びとが疎外される強欲な企業権力社会に反感を抱くローラへの共感や連帯感があったかもしれない。
「努力と忍耐は必要なものです。しかし、自らの目標と勝利の達成は、つまり自分の人生は、自らの手で攫み取るものです」とホッブズ氏はローラに告げた。
ホッブズ氏の忍耐強い復讐の計画は、深く鋭い読みにもとづいていた。まるでいくつものチェスの盤面を連ねたような。
ロンディの成長とともに損害補償額は膨張し、シンクレアが自分の全資産を担保にしても追いつかないくらいのところまできた。もちろん、保険連合でのシンクレアの地位も資産も増大している。だが、世界的独占企業のロンディ本社が抱えるダイアモンド原石の全部の損失被害をカヴァーできるものではない。
ここでシンクレアが全財産を失うことになれば、貪欲の塊である彼にとっては、死ぬよりも辛い敗北である。
ブリテン金融界での力関係から見ても、ミルトンとロンディ・グループがシンクレアに損失全額の補償を強いることは明らかだ。