この物語の背景となった、巨大ダイアモンド商社とロイズ保険協会との関係の社会史的分析は、かなりの分量となるので、別の独立の記事に移すことにした。
ここでは、物語そのものについて印象を語ってみよう。
物語のプロットには、いくつもの皮肉な文脈が交錯している。かかる文脈とは、
@ 女性たちの指や首、手首などを飾る宝石=ダイアモンドの供給体制が、じつは、ヨーロッパの強国ブリテン(&ベルギー)の過酷な植民地支配・搾取のシステムによって構築されてきたこと。
だから、世界経済の歴史を知る者から見れば、優雅さや華美の象徴としてのダイアモンドは、「帝国主義者」の醜悪な強欲によってもたらされた、旧植民地の大地と民衆に対する収奪と民衆の悲惨さの象徴である。
それゆえ、この文脈から見れば、その事態に一顧だにしないで、ただ自分を飾るために宝飾を身にまとう者たちの――客観的に見た場合の――無知や残酷さが浮かび上がる。
A 今から50年前には、ロンディのような世界的独占企業の快適なオフィスのなかでは、階級格差と女性差別・女性蔑視が堂々と罷り通っていたこと。
そのなかで、ビズネスキャリアを築こうとして、当時の価値基準から見た「女性としての幸福」に目もくれずに、ひたすら経営業績の達成のために努力した女性がいた。しかし、彼女はついに報われることはなかった――企業組織のなかでは。
はらいせに企業への復讐心もあって、ダイアモンド強奪の片棒を担ぐことになった。
その結果、波乱もあったが、巨額の現金を手にして、自分の人生の再設計をおこなう契機となった。それは、女性が巨額の基金を動かして、世界を変革するキャリアへのアプローチとなったという文脈。
もちろん、そんなことはファンタジーでしかない。
でも、ダイアモンド商社と保険業者から巻き上げた巨額の資金で、彼らがかつて執拗に維持強化しようとした植民地支配がもたらした差別や貧困で苦悩する人びとを救済し、その自立を援助する仕事をおこなうという物語は、政治的メッセイジが明快で痛快である。
B ホッブズ氏の日々の暮らしぶり、仕事ぶり、あるいは社会的地位と、彼が企図していた冒険のスケイルの大きさ、知謀の深さ、作戦の巧妙さとのコントラストが痛快だ。
ブリテン社会の階級格差・差別の構造のなかでは、エリートたちによって下積みの人びとは無視され、侮蔑される。エリートの悪意ではなく、育ちや生活慣習がもたらす意識構造や心性(つまり共同主観)がしからしめる必然的結果なのだが。
それゆえ、エリートは経営の機密である人事や経営情報を、雑役係の目の前で平然と話していた。そのため、ホッブズ氏は、ダイアモンド商社のアキレス腱を掌のうちにつかんでいた。そして、原石全部の強奪を計画し、実行した。こういうプロット設定がみごとだ。
C女性のビズネスキャリアとは何かについて鋭い問題提起をしていること。女性が自尊心を満足させたり、社会のリスペクトを受けるためにおこなう努力の方向や内容について、この作品は斜に構えた懐疑を投げかけていること。
ダイアモンドなどの華美な宝飾で身を飾り立てる方法が女性の自己表現・自己実現の方法として優越する時代もあった。
ところが今や、女性が企業や経営組織でのキャリア、つまり地位や権限の大きさを競い合い誇示する時代が到来している。
だが、それは、社会が押し付けた価値観や規矩に無理をして自分を押し込めているだけではないだろうか。自分が大した存在であることを自己確認し表現するために。それは男も同じなのだが。
それはしょせん、人間特有の同種間の生存競争の1つの形態でしかない。たとえば、樹液や交配相手のメスをめぐって角や牙を振り立てて闘争するカブトムシやクワガタムシと同じ次元で変わりがない。むしろ、「高度な知能」をもってする競争なので、もっとたちが悪い。
D 資産家や有力起業家のあいだにも厳然たる力の優劣関係・序列があって、それがゆえに、私たちから見れば同じ「雲の上」の人びとのあいだで熾烈な優劣争いとか駆け引き、あるいは角逐を引き起こしているということ。
エリート中のエリートで首相の顧問でもあるミルトン卿(ロンディ社会長)と、新興成金の保険業者のシンクレアとの関係を見よ。
このような文脈を複合的・重層的に関連させて問題提起しているところがすばらしい。
■キャスティングの妙■
主演俳優は、ローラ・クィンがデミ・ムーア、ホッブズ氏がマイケル・ケイン。ともに自己抑制に富んだ、知性と野心に溢れる人物をみごとに演じている。とくにマイケル・ケインの演技が素晴らしい。これまで、多くの名作に出演してきた名優の力強く、また渋く枯淡薫る演技が冴えている。