合衆国ワイオミング州辺境のジョンスン郡で1889年〜1893年に断続的に発生した紛争は、「ワイオミング放牧地戦争」とも呼ばれる。
この紛争は、大牧場主(畜産企業)の団体が、ワイオミング州の放牧地で畜牛を盗んだと見なされた農民を見境なく残虐にリンチしたことから始まった。敵対は深まり昂じて、ついに北東部のパウダーリヴァー流域の盆地平原での騒乱にいたった。
畜産企業家団体は荒くれガンマンたちを雇って、零細な開拓農民と牧畜業者たちを一帯から追い立てようとしたのは事実だ。入植農民――彼らは土地への施肥や食糧確保のため零細規模の酪農も営んでいた――のほとんどは、ヨーロッパからの移民たちだった。 騒擾と紛争は、双方疲弊しきっての「引き分け」となった。
というのは、当時の大統領、ベンジャミン・ハリスンの命令で出動した連邦陸軍騎兵隊は、争う両者を鎮めて武装を解いたからだ。
とはいえ、引き分けとは、圧倒的な資産と政治的影響力を持つ大地主階級の圧勝という社会的・経済的結果を意味する。
この一連の事件は、その後、新聞紙上などで――当時の新聞は「面白い読み物」を提供する役割を期待されていて、記事は必ずしも事実ではなかった――誇張されたり伝説化されて語り継がれ、西部辺境の暴力的な銃撃戦の物語となったらしい。
さて、西部辺境地帯で大畜産業者と開拓農民との紛争が目立ち始めるのは。1871年代になってからだ。
その頃、1965年まで続いた南北戦争が終結し、北東部の工業資本と銀行の主導のもとで北アメリカ大陸を横断する鉄道が建設され、69年に完成した。
工業化が進展したという背景があって、合衆国の領土と辺境の西部への拡張とともに西部開拓がブームとなった。
おりしもヨーロッパから政治的抑圧や貧困から逃れるために多数の移民がアメリカに押し寄せてきた。それは、国家形成のために合衆国政府がヨーロッパからの移民を奨励し、受け入れたからだ。そして、西部辺境の開拓のために、入植農民が開拓した農地を所有できるとするホームステッド法を制定した。
ところが、国内人口の増大と世界貿易の拡大とから、食用肉への需要も飛躍的に増大したため、西部辺境での畜産業も急速に成長していった。
それまでは、少数のネイティヴ住民のほかにはさしたる人口がいなかった西部辺境に、大規模な畜産企業家が放牧地を拡大していく一方で、多数の開拓農民が入植してきた。両者の利害の衝突は避けられなかった。
辺境の土地の水の占有・利用権は、先に開拓または利用に手をつけた者に優先権が与えられ、所有権発生の根拠となった。だが、入植農民が数が増えるると、大牧場主たちは土地の水利権の独占を試みるようになった。
州ならびに郡の行政当局者側は、大牧場主層の言い分に耳を貸しがちだった。