世界の「民主主義の模範国」を自任し、その価値観を世界に押し付けようとしてきたアメリカ。だが、国内で性別ないし人種・民族による深刻かつ露骨な差別が政治や文化の表舞台から退いたのは、つい最近のことだ。
そして今また、デマゴーグ選挙戦で勝利して登壇した大統領が、人種・民族や国籍などを理由とした差別を政治制度のなかに持ち込もうとしている。
ヨーロッパの大航海時代に「新大陸として発見」され、植民地争奪戦の舞台となり、かつまた先住民の生存の場を強奪して形成された国家アメリカ合衆国には、銃砲――武装自衛の論理――が公然と市民社会に持ち込まれていることもあって、差別と暴力への傾向がときとして強くはたらくのかもしれない。
今回取り上げるのは『天国の門』(1980年)。原題は Heaven's Gate 。「西部劇」というよりも、「天国の門」という場所で起きた地獄絵巻のような悲劇――階級闘争と殺戮戦――を描いた史劇だ。。
この映画作品は、19世紀末のアメリカ北西部で実際に起きた熾烈な騒乱という史実を下敷きにして脚色・制作された問題作。
映画の内容も問題となったが、映画の制作・編集をめぐっても紛糾した。当初の監督、マイケル・チミーノの思い入れが強すぎたのかもしれない。
ここでは映像の物語を追いながら、西部開拓史の末期の社会状況と騒乱を分析してみよう。
この作品は、19世紀末、ワイオミング州ジョンスン郡で実際に起きた住民のあいだの戦争――富裕な大地主階級と貧困な開拓農民階級とのあいだの対立と騒乱、殺戮――をもとにして脚本が書きあげられた。
物語の登場人物たちの名前は、実在した人びとの名前である。ただし、立場や役回りはすっかり変えられている。
当初の企画立案と撮影指揮はマイケル・チミーノだったが、結局最終的には編集と完成作業から外れてしまったが、映像全体に、ツィミーノ監督の執念を感じさせる。そして、いやになるほど長い。
私たちはこの映像物語をつうじて、アメリカ合衆国という大陸規模の国民国家が形成される過程で、こういう血なまぐさい武力紛争・騒擾がいやになるほど繰り返されたことを知ることになる。その意味では歴史的資料としての価値が高い物語だ。
映画のもとになった事件とは、1889〜1893年にワイオミング州ジョンスン郡で起きた紛争だ。大牧場主階級の組合団体が荒くれガンマンを傭兵として雇って開拓農民を追い立てようとして起こした騒乱だ。
ところが、ツィミーノ監督が撮影に時間と金を使い放題使ったことから、途中で計画が破綻して、映像の所有権や管理権、編集権をめぐって紛糾して制作の担い手が二転三転したことから、物語には一貫した視点やテーマが設定できなかったように見える。
ツィミーノ自身が最後まで制作編集に携われなかったために、統一的な視点や構想によってまとめ上がることができなかったせいだろうか。
それにしても、イタリア人ないしイタリア系の映画監督たち――ベルトルッチやF.コッポラなど――は、撮影や時代考証、背景の設定に徹頭徹尾こだわり方には脱帽する。ツィミーノもこだわりすぎて、商品としての映画制作の時間と金が有限なことを忘れたのだろうか。問題意識あるいは課題意識が先走りしすぎたのかもしれない。
チミーノ自身の手で完成していたら、どのような作品に仕上がっていただろうか? そのイメイジは、観る側自身で想像するしかない。
だから、この作品を観るさいには、自分なりの視座を設定しておく必要があるだろう――歴史物語を自分の頭のなかで再構成するために。
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