天国の門 目次
辺境での大虐殺
見どころ
あらすじ
エリートとしての旅立ち
熾烈な階級闘争
保安官、エイヴリル
WSGAの謀略
開拓農民たち
ネイトとジェイムズ
傭兵団の組織化
ジョンスン郡住民の分裂
ネイトの悲劇
へヴンズゲイトの戦闘
追い込まれた傭兵団
連邦騎兵隊の介入
不思議な終幕
■この物語の描き方■
■実際の事件 社会状況■
■利害紛争の拡大■
■階級戦争■
■紛争の実相■
■経済変動と気候変動■
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■■この物語の描き方■■

  さて、まとまりがないままに終わるこの映画だが、映像の撮影だけは、マイケル・チミーノの指揮下で終わったのだと思う――そう仮定して話を進めることにする。
  一見、WSGAが横暴な悪役で、ジェイムズと開拓農民たちが「良民 good people 」として描かれているように見える。だが、チミーノの眼差しは、双方に対して突き放した冷たさを保ち続けている。ジェイムズに対しても。
  だから、この物語の登場人物に「正義派」はいない。

  WSGAの迫害を受ける農民たちも、それぞれに自分の利害をしたたかに追求し、「つかまらなければいい」という腹で牛を盗み解体する。そして、しばしば男たちは、妻や子どもを見捨てて、小金を持ち出し闘鶏や娼婦に入れ上げたりする。せっかくの貯えを深酒に費やしてしまう。
  あまりに生活が苦しく、希望の光が見えないので、農民たちは将来への備えよりも目先の欲望の充足、刹那的な喜びに身を委ねる。愚かで醜い。

  ジェイムズも東部に妻を残してワイオミングでエラを相手にふしだらな生活を送っている。
  そして、傭兵隊と農民との闘争の描き方でも、一瞬の感情に突き動かされる農民たちは、自己抑制のかけらもなく自ら犠牲者を増やす。
  戦争や戦闘の訓練を受けた経験がない農民は、そんなものなのだろう。

  武装して攻め来る敵を目の前にして、冷静に銃に弾を装填して正確に狙いいをつける、という兵士の動作は、ヨーロッパ近代の数百年の歴史と経験、そこから導かれた調練の成果であって、自然発生的に生まれたものではない。
  ヨーロッパでは、徴募された兵員たちが、戦場で基本的に隊列や陣形を崩さないで、銃をあつかい戦闘態勢をとれるようになるまで――それは19世紀の末から20世紀初頭にかけてのことだ――に、300年以上の時間がかかっている。
  それが大がかりな戦争で試されたのは第1次世界戦争だった。ところが、戦場で戦闘や殺戮・破壊の恐怖と衝撃に耐えた兵士たちは、故郷に帰還するとその多くが精神に異常をきたすようになった。
  戦場から帰還した兵士たちの精神病理的な後遺症の治療をめぐって、フロイトやユングなどが典型となる精神病理学や心理治療が発達したのは、まさにこの戦争のあとだった。⇒関連記事

  映像メディアがない時代に、開拓農民が戦い方を知らないのは、理の当然である。
  その意味では、恐ろしいほど徹底したリアリズムに貫かれている。イタリア風のネオレアリズモの手法は、ここでも貫徹されている。
  だが、ベルトルッチやコッポラの映像には何かしら秩序や美学が漂うのに対して、この映像は、ただ凄まじい圧迫感に満ちている。
  人間の営為である戦いや憎悪・敵対の「醜悪さを」を描き出すためには、たしかに効果的だ。そして、「歴史の重さ」を伝えるためにも。だが、映画芸術作品である以上、「とりとめのなさ」がそのままになったのは惜しい。

  それにしても、この映画は富裕階級を非難しているわけでも、貧しい開拓農民階級に同情しているわけでもない。人間という存在のしたたかさや醜悪さを描き出すために、ジョンスン郡の事件に仮託して寓話的に描いたということなのだろう。
  その意味では、この映画はいわゆる「歴史劇映画」ではない。実際の事件が換骨奪胎されるほどに脚色され、フィクションと言ってもいいだろう。では、実際のワイオミング辺境での紛争の実情はどうだったのだろう。

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