1910年、そしてそれ以降のアメリカでは史上空前の急速で大規模な経済成長が見られた。1929年のウォール街の証券取引市場(バブル)の麻痺・崩壊まで、未曾有の経済成長と膨張を続けた。
好況を背景にして大都市を中心に、これまた未曾有の株式投資ブームが続いていた。ニューヨークでは、裏町の商店の小僧までもが、わずかな給料を株式投資に回して財産づくりを夢見ていたという。
好景気は永続すると思われていたから、世の中のほんの一握りの貨幣片までもが株式市場に流れ込んで、株券の名目的価値を傍聴させ続けていた。金融資産の膨張速度が実物経済の成長よりもはるかに上回っていたのだ。必然的に「調整局面」としての金融恐慌と大不況が訪れることになった。
1910年、ニューヨークの自転車メイカーの工場の技師、チャールズ・ステュワート・ハウワードは、品質の劣った自転車を粗製濫造する会社に見切りをつけて、西海岸、サンフランシスコに移って、自前の自転車店を開業した。
だが、20世紀初頭の西海岸はフロンティアからようやく抜け出して開拓・開発が軌道に乗り始めた頃。大都市はなかった。
ところが、アメリカでは自転車は都市の乗り物だった。移動できる距離が小さく、ひどいデコボコの悪路や泥濘の道を走る乗り物ではなかったからだ。
開業してから、来る日も来る日も、自転車を買おうとして訪れる客は現れなかった。ところが、ある日、エンジン不調の自動車が店の前に止まった。車の持ち主は、チャールズに車の修理を頼み込んだ。
すぐれたエンジニアだったチャールズは気楽に請け合った。
機械好きの彼は、自動車の機関部と駆動部を全部分解して、修理し、部分的に改良を加えて、客に引き渡した。その工程で、チャールズ・ハウワードは、自動車=オートモウビルという現代文明のテクノロジーに圧倒され、その産業としての無限の可能性を確信した。
というわけで、すぐに自動車販売(修理や改良も含む)に転業した。
そのときの自動車は、古いタイプのビュイックで、エンジンシリンダーのピストンは蒸気で動かされていた。ガソリンはボイラーの加熱に利用されていた。だが、まもなく、堅固な鋼鉄合金のシリンダーが開発され、現在のレシプロプロエンジンのご先祖の「2ヴァルヴ式のフラットエンジン」が誕生する。
さて、ハウワードの転身は大成功で、またたくまに事業を拡大して多数の従業員を雇い、巨万の富を築いていった。結婚し男の子も生まれた。
1921年には、カリフォーニア州北西部、メンドーシーノ郡にあるリッジウッド牧場を買い入れた。だが、当面は牧場は住居兼保養地として使っていて、牧場経営よりも自動車産業が本業だった。大規模な厩舎はビュイックを保管する倉庫になってしまった。